クリスチャン・タイジェスト

 

天国の門に立つ

 

ハワード・ピットマン

 

1981年の、カリフォルニア州フェイス・チャペル教会での講演より

 

 ご招待頂さまして、ありがとうございます。また、私の証しにご協力頂ける事に感謝Lます。これからお伝えしようとする事は真実です。何故なら私自身に起ったことですから。

  無論、私は夢、幻、幻想が実際の体験とは逢うものということは知っておりますが、これは本当に起ったことです。ただし、私は皆さんを説得しようというつもりは毛頭ありません。

  主が私にこれを伝えよと言われたので、ただそのとおりにするだけです。しかし、私のお話しする中で幾らかでも皆さんの心に語りかけるものがあるとすれば、それは聖霊のなせる業です。では、ありのままにお伝えしましょう。

  奇跡が起きたのは1979年の8月3日。その日私は、予告もなく襲ってきた大動脈の破裂による大量の内出血のため、肉体的な死と言えるものを経験したのでした。私の霊魂は肉体から引き離され、まず最初に第二の天国に、そして最後には第三の天国の神の御座へと連れて行かれました。

  そこで、地上では見られない様々なものを見た後、5項目から成るメッセージを父なる神から授かりました。それから、神は私を地上に戻されました。そのメッセージを世に伝えるという目的のために私を再び生かして下さったのです。

  さて、人々に伝えよと、神が私を御呼びになったのが1980年5月7日でした。それまでの9ヵ月間、私は待っていました。神が私をお使いになるまで毎日聖書を読み、この期間に、過去に私が聖書から学んだことより、はるかに多くの事を得ることができました。聖霊の御力です。これより以前、35年もの間、私は真のクリスチャンとして生きてきたつもりでした。神の望まれることを行なってきたと信じていましたし、神も喜んでいて下さると思っていました。私は伝道者であり、教会の牧師でもありました。主の祝福により神学校に参加させていただくことも出来ました。しかし、私のしてきたこれらすべての行ないも、神の御前に立った時には無に帰したのでした。

 

ミシシッピーでの少年時代

 

  さて、その奇跡の話に入る前に、それまでの私自身の人生についてお話ししておきましょう。そのほうが、それがいかに大きな奇跡であったか、またいかに神の御業であったかがおわかり頂けると思います。

  私は、1928年11月3日、ミシシッピ州で生まれました。8人兄弟の7番目です。少年時代は丁度大恐慌の真っ最中で、ミシシッピ州南部のレッド・クレイ・ヒルズにある小さな農場に住んでいました。

  当時は非常に厳しい時代で、人々は貧窮のどん底にありました。両親は毎日の食事を調達するのにも苦労していましたが、クリスチャンの家庭に生まれた為か、他の家庭に比べれば恵まれていたように思います。

  父はバプテスト教会の執事をしていました。教会を建てるための用地を寄贈し、教会の建築材料にする木までも寄贈したのです。父は、私達を教会に行かせるのではなく、自ら先頭に立って連れて行さました。教会のドアが開く時には、私達はいつもその前で待っていました。家族ぐるみで聖書の勉強もしていました。大恐慌の真っ最中でしたから、TVもラジオもありません。ラジオのある家もありましたが、私の育ったような田舎にはありませんでした。私達にとって毎日曜日、教会に行くこと自体が何よりの楽しみだったのです。

  大人達はそこで礼拝を捧げ、私連子供は、心に残る説教や美しい歌を聴きました。私は、そこで話される事すべてを幼心にしっかりと信じていました。イエスキリストが実在し、聖書の偉大な英雄達も本当にいたのだということに何の疑念も抱いてはいませんでした。

  学校で先生が話してくれたアブラハム・リンカーンや、その他のアメリカを築いた偉大なヒーロー達の話も信じていましたし、疑うことすらしませんでした。けれども、こうした人々は速い昔に生きた人達であり、今はもういない人達ですから、幼かった私には今ひとつピンと来ないものがありましたが。

  さて、12才のある日、巡回伝道師が教会に来て、地獄についての説教をしました。それは話の中に出てくる炎の灼熱が自分の体に感じられるほど、迫力のあるお話でした。非常に身につまされる話だったので、その人の話に聞き入りました。罰について、その伝道師は話しました。私は罰がどういうものか十分知っていました。私の母は罰を与えることを十分心得ていましたので、罰について身をもって知っている私は熱心に耳を傾けたのです。

  伝道師の話はあまりにも真に迫っていたため、すっかり怖くなってしまいました。私にはあの「火の池」なんてまっぴらです。ですから、そんな罰を絶対に受けないで済むよう、自分に出来る事はどんなことでもする…と12才の私は意を決したわけです。

 

神学校から警察へ

 

  それから何年か後に、朝鮮戦争が勃発。戦地から戻ると、主が私を召され、伝道を始める時が到来したことを知りました。聖職に就く備えとして、ミシシッピ州ハティスバーグの小さなバプテスト派のカレッジに入学しました。ウィリアム・ケアリィ・カレッジです。しかしそこで2年間勉強した後、もうこれ以上犠牲を払うのはごめんだと考えて中退し、ニューオーリンズに行くことにしました。田舎者の青年が都会に出て行ったわけです。

  ニューオーリンズで警察官となり、26年間勤務したのですが、その間、神学校に通学することさえできました。常勤の警察官でありながらも、聖職者となるための教育を受けられるよう、主が特別に計らって下さったのです。神学を学びながら、牧師の仕事までさせて頂きました。警察官を勤めるかたわら、自分のクリスチャンとしての信仰を、私なりに行動に移したつもりです。街角で伝道もしましたし、刑務所に服役している人や、病院に入院している人達も訪ねて伝道しました。機会があれば、どこででも主イエス・キリストについて証しをしたのです。

  私は、あの黄金律、つまり「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもその通りにせよ」という聖書の言葉を守るように努力しました。実行するのは大変ですが…。そして、隣人を愛するよう努めました。これも、往々にしてたやすいことではありません。特に、その隣人が愛されたがらない時は…(笑い)こうして、聖書で教えられているクリスチャンの信仰を実践する事に全身全霊をうち込んだのです。

  ところがある日、突然の死を迎え、神の御前に立った私に神はこのように言われたのです。「おまえの人生は汚れた雑巾に過ぎない」と。私は我が耳を疑いました。神が自分にそんな事を言われるなんて。きっと神は人違いをしておられるのだと思いました。

 

退職すれど平安はなく

 

  さて話を元に戻しますが、1978年7月1日、警察を退職。ミシシッピ州に61エーカーの農場を買い、妻とそこに移りましたが、私の人生には、何か大切なものが欠けているような気がしてなりませんでした。聖書には、クリスチャンは「心の平安」と「喜び」を持っていると書かれているのに、それがなかったからです。そのことを身にしみて感じていた私は、「平安」と「喜び」を取り戻す方法を必死に探していました。

  そこで妻と二人だけで、ある奉仕事業を始めました。恵まれない子供や、虐待されていた子供の為に自宅を開放したのです。主は、この奉仕を祝福して下さいました。こうして子供達を愛し、この子供達のために尽くすことで、心の安らぎも戻ってくるのではと期待していました。大抵の人は、3年の内に子供ができて小さな家庭を持てれば自分達は祝福されていると考えます。しかし、この3年の間に私達が主から授かったのは、32人の子供達でした! 一世帯の子供の数としては大変な数でしょう? 32人です! 勿論、全員が同時期にいたわけではありませんでしたが…。

  さて、子供達の世話をするかたわら、私は、ある海底油田会社で保安関係の仕事もしていました。作業員の麻薬所持の探知と予防に携わる人々と犬の指導です。その会社の営業の仕事もしていました。しかしながら、こうして身を粉にして働いても、未だに私の求めている「平安」は見つかりません。教会も必ず一番乗りでした。日曜学校の教師もしていましたし、その指導主事になるための訓練も受けていました。自分に出来ることは何でもやっていたにもかかわらず、求めるものを見いだせないでいたのです!

  1979年の春、政治に首をつっこむよう近所の人達が私を説き伏せました。彼らはクリスチャンの郡保安官が欲しかったのです。私は警察官の経歴があるので、これがひょっとしたら神からの召しかも知れない、これで欠けていたものが見つけられるかもしれない、探し求めていた心の平安と喜びを手にする事がでさるかもしれないと考え、保安官選挙に立候補する事にしました。1979年の春から夏にかけて懸命に働きました。8月7日には選挙が控えていました。8月の初め、非公式の抽出調査から、決選投票に残れそうな感触をつかみました。けれどもそうなると、一つ困った問題がありました。私の選挙キャンペーン資金が既に底をついていたのです。資金援助者が必要でした。

  そこで、地元の銀行の頭取と取縮役に会う約束を取り付けました。約束の日の前夜、翌朝早く起きて友人と打ち合わせができるよう、明日の予定を思いめぐらしながら眠りについたのでした。

 

破ることのできない約束−−死

 

  翌朝、いつものように早く起きました。約束の時間に間に合うかどうかが気がかりでしたが、実は、神との約束があったなど夢にも思っていませんでした! しかし、私はそれに従う運命にありました。主がその時までに戻って来られない限りは、絶対の定めなのです。これははっきりと言えます。ここにある聖書にも、一度死ぬことが人間に定まっており、その時がくれば、誰でも従わなくてはならないと書かれています!

  その日、何の前触れもなく、腹痛すら伴わずに大動脈が破裂し、大量の内出血に見舞われたのです。私は突然の死を迎えました。

  その時、驚くべき事が起こっていたのです。これを信じる事ができない人々は大勢います! 冒頭に申し上げたとおり、皆さんに無理に信じさせようとするつもりは一切ありません。ただ主が「伝えよ」と言われるままにお話しするだけです。

  私は今、大抵の人達が実話だと信じる事さえできないような事を話そうとしています。ですから、あなたが聖書を信じるなら、ぜひ知っていただきたい。この話に出てくる事柄はすべて聖書によって裏付けられるということを。

  その場所で私は、神は私達に何一つ隠されておられないこと、神はここにある聖書にすべて書き記して下さっているということを知りました。つまり神は、大昔から秘密にしておられた事を私に明らかにして、地上に伝えさせる為に、私を天国にお呼びになったのではなかった。神が私に示されたすべての事、私が目にしたすべての事、私が耳にしたすべての事は、我々が持っているこの聖書に書かれている事と一致しているのです!

  私が最初に会った人々、あるいは最初に見た「存在」とでも言った方が良いのでしょうか。皆、霊的な存在であり、驚くほどのパワーを持っています。彼らについてお話しする前に、それについての記述を聖書から二、三あげてみましょう。

  ルカ8章29節には、悪霊は驚くほどの力を持っていることが書かれています。マルコ5章8−9節には、数え切れないほど大勢だと書かれています。またマタイ10章1節には、彼らは汚れたものであること、マタイ12章12−30節には、完全にサタン自身の支配下にある事が書かれ、第二ペテロ2章4節は、堕落した天使達もその中にいる事を指摘しています。

  以上の聖書からの引用句を頭に入れておいていて下さい。さて私は妻に付き添われ、救急車で運ばれました。しかし、病院までまだ30キロの地点で生きている徴候が完全に途絶えてしまったのです。片腕に輸血、もう片方の腕には点滴がなされ、体中、検査機器のコードがつながれていましたが、心臓の鼓動も呼吸も停止し、血圧は落ち、救急救命士は私が死んだものと判断したのです。そこで無線のスイッチを入れ、「患者は死亡」と連絡しました。また、医師に救急用出入口で待機し、蘇生のための医療器具をスタンパイしておくよう頼みました。

  病院に到着するや否や、待機していた医師が救急車から私を運び出し、緊急治療室で胸部を切開して、即座に輸血を開始しました。まるまる24時間、6人の医師が私にかかりっきりでした。緊急治療室で7時間、外科手術室で7時間、集中治療室で10時間です。集中治療室では私の肺機能が停止したので、さらに別の手術も施しました。極めて困難な状況であったにもかかわらず、この献身的な人々が一人の人間の命を守るために戦ってくれたのです。この人達の必死の努力を神に感謝します。

  しかし、私には死すべき時が来ていました。医師達がいかに努力しようとも私の命を永らえる事は出来ないのです。神にしかできない業です。はっと意識が戻った時、これが「死」だと悟りました。「自分は死ぬのではないか」とか、「怖い、自分は死のうとしている!!」という気持ちはありませんでした。それは、「私の死ぬ時が釆たのだ」という一つの啓示でした。

  祈りました。それも、極めて異例な祈りを…。「神よ、どうか万物の創造主たるあなたの御座に出て、この命を永らえて下さるよう嘆願する機会を与えて下さい」と。祈りでさえ、全く身勝手なことを言っていたのです。この世での命を求めて祈り、自分をこの世に戻してくれと言っていました。それが神にしかでさないことを実感していたからです。

  それから次に私の耳に聞こえてきたのが…これを説明するのにぴったりの言葉が見つかりません。皆さんも体験すればわかって頂けるのですが…。私が耳にしたこの声を皆さんにお聞かせする術があればと考えずにはいられません。この世で聞いたこともないほど美しく、神秘的な声でした。私の人生でこんな経験は一度もなかったし、説明の言葉も見つかりません。いずれにせよあまりに魅惑的だったので、すっかりだまされてしまいました。その声の虜になったのです。

  この時点では、意志の力だけで生きていました。一呼吸一呼吸に大変な力を要し、生味の人間の体では耐えられない程の苦痛でした。生命の限界にさしかかっていたのです。すると、その声が私にこう言いました。「止めなさい! そのまま息を止めなさい! すぐに楽になる。平安が訪れ、今までほしかったものすべてが、今あなたのものになるから。」私が神に祈った途端に、この声が、神が語りかけるがごとく聞こえてさたのです! 「神」らしさ調子で語り、まさに神以外の何ものでもないかのようでした。

 「息を止めよ」との声に私は応じ始めました。しかし、呼吸しようとする力を少しずつ弱め始めた時、ある思いがさっと脳裏をよこぎりました。「違う! 嘘だ! おまえは神ではない!!」 私が抵抗すると、サタンは飛び去っていきました。まさにヤコブの書に書いてある通りです。(ヤコブ4章7節)生と死の谷間においてすら、サタンは自分が神であると偽り近づいて来るのです。もう少しで信じるところでした。これは珍しい事ではありません。この35年間、サタンの言葉を幾度信じてしまった事か。ですから、サタンは私がまた信じるものと思っていたのです。サタンはもう一息で完全な勝利を収めるところでした。後もう一息で…。

 

「第二の天」

 

  全く知らなかったのですが、天使達は終始、私の周りにいたのです。けれども私がサタンに抵抗の意志表示をするまでは、助けの手を差し伸べることすら出来なかった。私が抵抗するのを見て初めて、私の魂を肉体から引き上げたのです。詳しくお話しすると長くなりますが、いずれにせよ私達の魂は肉体とは別のものという事を理解しておく必要があります。

  天使に魂を引き上げられ、まっすぐに連れて来られたのが、第二の天です。第二の天、それは私達を取り巻く空中であり、天体であり、大気でもあります。ただ、肉をもった体では通過出来ない次元の壁を通過しさえすればよいのです。

  サタンは今この第二の天に己の王座を持っています。聖書ではサタンは「空中の権を持つもの」と呼ばれています。(エペソ2章2節)第二の天はサタンに仕える悪霊共のすみかですが、現在その場所にいるとは限りません。悪霊共の大半は現在この世、つまり私達が存在する世界にいるのです。しかし、第二の天がもともとのすみかです。

  我々のいる地上の世界があって、その上に第二の天、そして、そのはるか上に第三の天が存在します。第三の天については、パウロがコリント人への第二の手紙12章2節に記述しており、父なる神やすべての聖徒や天使達のいる聖なる場所です。この地上から第二の天を経ずして第三の天に通じる道はなく、また第三の天から第二の天を経ずしてこの地上に通じる道もありません。主イエスが十字架刑から甦られて後、あの閉ざされた部屋で姿を現したり、消したりできたのもそのためです。主はただ、この次元の壁を往復されただけなのです。今回の旅で、天使達は私を幾度もこの次元の壁を出入りさせたのでした。

  さて、魂を引き上げられ、連れてこられたここ第二の天での旅は実に広範囲なものでした。悪霊にも様々な種類があるのを見せてもらいました。それぞれの得意分野がわかるような形でです。

  エデンの園のアダムとイブの時代以来、この地上に自分の王座を設けるのがサタンの夢でした。サタンは肉体の姿をとり、人間達によって崇拝されることを望んでいるのです。次元の壁のこちら側、つまりこの世界に王座を据えることがサタンの最大の計画であり、それをめぐって戦いが起こっています。神が私にこれらを見せて下さったのは、今まさにサタンの計画が実現しようとしているからでもあります。現在、霊の内で大いなる戦争が起こっているのは、これが原因です。だからこそ、信仰をめぐって戦いが激しくなっており、次元の壁のこちら側、つまりこの地上での悪霊の活動が活発になっているのです。悪霊どもの「神」であり、「王」であるサタンは、その化身である一人の人間を通して姿を現そうとしています。その人物はアンチキリストと呼ばれていて、その出現は間近に迫っています。霊の戦争はそれをめぐって起こっているのです。

  第二の天では悪霊共の活動をつぶさに見て来ましたが、そこにはカースト制度があり、階級や差別が存在しました。トップに立っ悪霊が配下の悪霊どもに向けるのはさげすみ以外何ものでもない。そこには軍隊並の見事な命令系統があり、地上の軍隊がこれを持てば世界に冠たるものになる程のものです。しかし、しかしです! 彼らの問には「愛」が見られない、全くないのです。

  悪霊達は、自分の任務を熱心に果たし、すべての肉を持つ者を征服せんとする意欲がみなぎっていましたが、主人であるサタンに対して「愛」がないのです。サタンも悪霊を愛しておらず、悪霊達にとっても愛など無縁です。そこは「愛なき世界」だからです。私は身を以てそれを感じました。重苦しい陰鬱な雰囲気が漂っていたのです! 一体これは何なのだろうと考えたのを覚えています。

  第二の天ではあえて質問をしませんでした。というのはまず第一に私自身が天使の行動に不満を抱いていたからです。第二の天に着いた時には、理由はわかりませんが、私には、神のおられる所がわかっていました。そして神が、神のみが私の望みをかなえて下さるということもです。私はその場所まで行きたくて仕様がなかったのですが、天使に連れて来られたのは全く違った方向でした。これでは落ち着いていられる訳がない! 私は始終、イライラしていました.「でも、天使達に文句を言う訳にはいきません。(笑い)何しろこの世界に来た時から自分が聖霊に守ってもらっているのに気づいていましたし、私をエスコートしてくれた天使も聖霊に守られていたのですから。

 奇異に聞こえるかもしれませんが、天国においてすら、天使には聖霊の守護が必要です。さて、今私がお話ししているのはサタンの存在する第二の天での事です。何故そうなのかお知りになりたい方はダニエルの10章をお読み下さい。天使でさえ聖霊の守護を必要とする訳がおわかり頂けるでしょう。何ものも主の力に逆らうことはできないのです。

 

悪霊の階級制度

 

  実に様々な姿形の悪霊を見ましたが、その中には実に醜い姿をしたものもいました。外見が人間と寸分変わらぬものもいれば、半人半獣や動物の姿をしたもの、見るだけで吐さ気を催す姿の悪霊もいる。これ以上醜悪でぞっとするような獣は考えられないほどの形相の悪霊もいましたが、とにかく皆、「生きた霊の存在」なのです。私はそれらをありのままの姿で見るのを許されていました。

  それから天使達が、我々人間は個々の自由意思を持っているものの、幾多の欺瞞をもって悪霊達が人間に影響を与えることも説明してくれました。悪霊自身には何の権威も力もありません。サタンの名の下で働くのです。サタンが悪霊共を任命して、権限を委任しています。

  何か似ていると思いませんか? あなたは誰のために働いていますか? 自らの権限をもって働いていますか? 自分の名や力によって働いていますか? クリスチャンなら、イエスの御名により、主であり救世主である方の権威によって、聖霊の力をもって働くはずです。悪霊達も同様です。何をするにしてもサタンの名において、サタンの権威において行動するのです。

  聖書で、サタンとその力について書かれている場合、サタンの手下どものことも語っているのです。サタンがその手下に権限を与えると、手下がサタンの代理として、その権限を行使します。

  先にお話ししましたとおり、彼らにはカースト制度が敷かれていることを天使が見せてくれましたが、それについて多少お話ししたいと思います。

  サタンの配下の最高位にいるのは、サタンが「領土」と呼ぶ地域を支配する「君」たちです。彼らが支配する「領土」というのは、この教会も入るかもしれないし、国家や個々の人間であったりします。何でもサタンの欺きにとって脅威となるものには「君」をおいて、そこを「領土」として支配させます。そしてそこを破壊し、骨抜きにするため、あるいはクリスチャンとしての光をもみ消すために必要な権力を与えるのです。

  あなたが神に属する生まれ変わったクリスチャンであれば、神の御手の内にあるのでサタンの手に落ちる事はありませんが、すっかり輝きを失ってしまうかもしれません。神はあなたの魂をしっかり守っている事がおできになるので、サタンは手を付ける事はできないけれども、クリスチャンとしての信仰の光を消す事ができる。それが狙いなのです。神に属している限り、サタンはその「光」を消す機会を狙っていると常に覚えておいたほうがいいでしょう。

  サタンのエリート部隊も見ました。人間の姿をした「デーモンの戦士」と呼ばれる身長240センチもある巨人達です。筋骨たくましく、ハンサムな金髪の軍団で、第二の天国であれ、地上であれ、どこでも一団となって行動します。歴史の本や新聞をご覧になれば、彼らの力を証明する記事が沢山載っており、あらゆる戦い、戦争の噂、条約違反、国家間の醜い紛争は他ならぬ彼らがその影響力を行使しているのです。彼らはそれほども強力です! またもろもろの国々で紛争を起こそうと絶えず工作しているのです。

  その力が悪霊の世界でナンバーツーの悪霊も見ました。最初に見た時、その姿は人間そのものでした。実は昔から私もなじみの深い存在であったと知ってショックでした。

  今思い起こしてみれば、最初見た時には、彼はその世界では事実上、ナンバーワンに見えました。「強欲の悪霊」として紹介されました。

  この悪霊が、あなたの家に現れたことがあると考えられますか? この悪霊の影響力は今や世界的に広がっています。信じられないなら新聞を開いてみて下さい。ニュースを見て下さい。世界中にその力が及んでいるとわかるでしょう。

  悪霊の階級を下っていき、ついに見るだけでむかつくような形相の底辺の悪霊どもも見ました。他の悪霊からさえ、さげすまれている存在です。この悪霊どもはぞっとするような気味の悪い姿をしていて、人間を堕落させるのが仕事です。最下層に属し、他の悪霊どもからも軽蔑されています。

 

第三の天へ

 

  それから私は地上の世界にしばし連れ戻され、悪霊が実際に人間に取りついている様子を見ました。これでもかこれでもかとたっぶり見せられてから、やっと例の次元の壁を通って第二の天に連れ戻されました。今度こそ自分が行さたいと望む方向に向かっているのがわかりました。なぜかはわかりませんでしたが、正しい方向に向かっているのを知っていたのです。

  天使との会話には言葉は使いませんでした。何か聞きたいことがあればそれを頭の中で考えるだけでよく、答も頭の中に伝わってくるという訳です。

  また思考速度で移動しました。天使がこれからどこどこに行くと言った瞬間に私達はそこにいたのです。つまり思考速度で移動できるということです。

  ところで私は地上に残した自分の肉体が心配で気が気ではありませんでした。霊が離れてしまった肉体が長くはもたないのがわかっていました。聖書にも「霊魂のない体は死んだもの」とあります。ただ、意識のない状態で横たわっているだけです。

  医師達は、切除した部分を除けば私の体は全くそのままと思っていたことでしょう。霊なきぬけがらとも知らないで…。

  そこにあったのはただの殻にすぎません。霊が戻ってこない限り決して目覚めることのない、呼吸しているだけの殻です。だからこの世での人生を愛していた私は、一刻も早く肉体を目覚めさせたいと思っていました。天使がなかなか神のところに連れて行ってくれないので、落ち着かずかなりイラついていました。

  しかし、地上での悪鬼の働きを見て戻った時に、今度こそ自分の行きたい方向に向かっているのがわかりました。

 考えていることは何もかも天使に筒抜けだということを悟ったのは、その時でした。頭に浮かんだ疑問に大使が答えた事が幾度もあったからです。ですから最初から天使には何もかもお見通しでした。

  さて、戻る途中で、今まで見たこともないほど素晴らしい所に行きました。その素晴らしさ美しさはとても言葉では伝えられません。何とか努力はしてみますが、言葉が見つからないのです。この目で見、体験したことを表現するには、この世の言葉ではあまりにも不十分です。とにかくできるだけご説明しましょう。

  第二の天は非常に陰うつで気味の悪い世界でした。しかしそれから私が行ったのは、この上もなく美しい場所でした。

  周囲には「透明の壁」が張り巡らされているようでした。目には見えませんが何か壁があるのは間違いありません。この園の「歩道」か「通り」か「小道」の中程に「トンネル」がありました。それはまばゆいほどに輝いていて、中を人らしき姿が歩いています。

  「この人たちは?」

  「天のふるさとに戻る聖徒たちだ。」

  地上で死を迎え、肉体を残して天に帰っていく人達でした。天使は、天のふるさとに続く「小道」の外側からその人達を眺めさせてくれました。

  肉の死を迎えると、主に属する人は皆このトンネルを通って第三の天に帰っていきます。聖霊がこの目に見えぬ壁となってこの人達を守っています。このことは第二の天に住む全ての者の知るところです。

  私も「光のトンネル」に入ろうとしたのですが、天使に止められました。許された霊だけ、つまり第三の天に帰っていく人しか通れないのです。悪霊どもなどなおさらです。

 聖徒には皆、守護天使がついており、中には大勢の天使の一団に付き添われている人もいました。実はそのことが少々気になりました。私には一人しかいなかったからです。(笑い)大勢の天使が付き添っているその重要な人々は一体誰なのだろうと思いました。

  天使に止められた時、自分も神の所に行けるよう頼んでいたのにと言うと、「行くところだが、外から行かなくてはいけない。」という答えが返ってきました。これは思考速度で移動…という訳にはいきません。天のふるさとに帰る聖徒たちと同じ速度で平行に進みました。第三の天の門が見えて来ると、周囲に異様な気配を感じ振り返りました。悪霊どもがはるか後方へとどんどん落下して行ったのです。

 

聖者の行進

 

  とうとう第三の天の門の外に到着しました。文字どおりの門がそびえ立っていて頂上も見えないくらいの高さです。またどの方向に目を向けてもその角ははるか彼方です。門の周囲は無論のこと、どこにも悪霊の影も形も見えません。

  身近に全能の神がおられるのを感じました。その畏(おそ)るべき御力が門を通して外にまであふれていました。この門の向こう側。そこには未だ私の経験していない「至上の喜び」が在る…。

  真っ先に神の御前に出て嘆願したかったのですが、それは成りませんでした。ここで待ち、聖徒たちが一人ずつ入っていくのを見るようにと天使に言われました。不思議なことに決して二人同時に入ることはありません。あくまでも一人ずつです。何故なのか説明はありませんでしたが、この地上に戻って以来、何度となく祈ったり、読んだり、そこで見た様々な事と照らし合わせて考えたりもしました。おそらくそれは、各人が自らの意志で決断したことに対する賛辞のしるしであり、この門を通ることを決断したことを称えるためなのでしょう。

  この門に入る人は皆、自らの意志と決断で主を受け入れた人であり、天国に住まう者皆から見守られながら、主からの報酬を受けに天の門を通るというのは、本人の功績を称えるようなもので、何と晴れがましい光景でしょうか。

  話は変わりますが、夫婦が永年一緒に暮らしていると、考え方や仕草、果ては外見まで似通ってくると言われます。しかし、このイエスを信しるかどうかは夫婦でも関係ありません。個人の決断なのです。ところで私の家内は私達夫婦は決して容貌が似てくることはないと言っています。何故ってこのとおり私はハゲ頭なので…(笑い)

  余談はさておき、そのようにして第三の天の門を入るのは、各自の決断を称えるようなものです。私は聖徒たちが50人ばかり門から入って行くのを見守りました。

  ここで一つ、私がこの世界に戻って以来、全米各地をまわってお話ししてきたことを皆さんにもお伝えしたいと思います。神の命ずるままに神からのメッセージを伝えてきた訳ですが、ここ一年間に訪れたのは米国50州のみならず、外国20ヶ国にも及びます。

  テレビ・ラジオ番組の出演の機会も与えられました。普通なら3百万ドルはかかるところですが、私達は切手一枚分も払わずにすんだのです。信じがたいことかもしれませんが、これは「神のなされた業」であることは認めていただきたい。私のような田舎育ちの男にはとても考えられなかったことですから。

 聖霊が言われるには、この50人が地上で死を迎え第三の天の門を通ったその同じ時刻に死を迎えた人は、他にも1950人いたのですが、彼らは第三の天には迎えられなかったそうです。この意味がおわかりですか。二千人の内のたった50人です。何と、2.5%です。この比率でいけば、今夜主イエスが再臨されたとしたら、世界の全人口の97.5%は天に迎えられないことになります。

  二千年近く働いて来たにもかかわらず、実績がわずか2.5%。これがゼネラル・モーターズやフォードやクライスラー社なら、広報担当者はクビでしょう。では私達牧師はどうなるのか。二千年もの問、世界に福音を宣べ伝えておさながら、天国に迎えられるのはたったの2.5%とは…。こんなことがあってよいのでしょうか。

 

天国の門に大胆に立つ

 

  さっそく天の門に入ろうとすると、時期尚早と天使に止められました。私は抗議しました。「神にお話ししなければ、私の肉体は死んでしまう。そのためにここまで来たのです。ぜひとも命乞いをしなくては…。」「門のそばで乞い願うがよい。神は必ず耳を傾け、答えて下さる。」 私はその通りにしましたが、別に現世に戻って神に仕えたかったからではありません。そこまで来ても私の動機は利己的でした。ただ現世で生きたかったのです。

  そこで思いを決して神に語りかけました。「神よ、今日まで私は善良で忠実な伝道者また教師だったではありませんか。主の御名によって並々ならぬ仕事をしてきたではありませんか。」 自分の命を永らえて頂くことは決して過ぎた願いではないと思っていましたから、今まで主を深く愛し、多大なる犠牲を払ってきたこと、また主の御名によって数々の善行をなしてさたことを切々と訴えました。

  「だのに私は困った羽目に陥っています。ただ命をほんの少し延ばして頂ければいいのです。きっと願いを聞いて下さると思って胸を張ってここに参りました。」

  嘆願を終えると、神の声が聞こえました。その声は生死の狭間(はざま)で聞いた甘美な声とはおよそ似ても似つかぬものでした。嵐や火山の噴火や竜巻が全部一緒になったような声で、誰にも真似などできないでしょう。

  第三の天の壁の向こうから神の怒りの第一声が私を直撃した途端、まだその言葉も聞かない内に、あまりの迫力に私はばったり前に倒れました。

  神は、これまでの私の人生を赤裸々に語られ、私の真の姿を暴かれたのでした。実は神以外のものをあがめ、行いは見せかけにすぎず、信仰は死んでいて、そんな人生を敬虔な人生と呼んで神に捧げるなど冒とくもはなはだしいと言われたのです。

  神の怒りに触れた私は、途端に打ちしおれました。口には出さずとも心の中では抗議していました。神が私の事を語っておられるとはどうしても思えない。「いや! 違う。私のはずがない! 誰か他の人と間違っておられるに違いない。」 今まで幾度説教を行い、主の事を人に証ししてさたことか。持てる物をどれほど、人に分け与えてきたことか。その事はみな、胸を張って言えます。嘘ではない。それがいつ、どこかも言える。私の事であるはずがない。しかし私の働きについて語っておられました。私の「救い」についてではありません。

  おわかりでしょうか。私の行ないはことごとく無に帰していたのです。聖書の第一コリント三章にあるように、火によって試された時に燃えないで残ったものは一つもなかったのです。すぺてを暴かれた私は、神の御前では裸同然でした。「主よ、主よ、あなたの御名によって素晴らしいわざを行ってきたではありませんか。あなたの御名によって、悪霊を追い出してきたではありませんか。」と言った人の気持ちがわかるし、主から、「不法を働く者どもよ、行ってしまえ。」と言われた人の気持ちも痛いはどよくわかります。しかしそれまでの私は、聖書にこのような箇所があることさえ、不思議に思ったほどでした。

 

肉体に戻り、再び天に

 

  神が言葉を終えられると、打ちひしがれて茫然自失の私を天使が引き上げました。そして例の次元の壁を超え、あの第二の天を通過し、肉体の横たわる病室へ直行したのです。自分の体にたどり着いた時に、我に返りました。「そんな! 待って下さい! まだお答を聞いてない!」 まだ私にはわかってなかったのです。「あの方はイエスともノーとも言っておられない。どうしても聞きたい。連れ戻して下さい。」すると願いは聞き入れられました。起きている事は初めから万物の神なる方の御計画の一つであり、その偉大な父なる神が、優しさと慈しみと愛をもって私の過ちを正そうとしておられたからです。

  戻る途中、ずっと考えていました。「今度は何と言えばいいのだろう。もう一度機会を頂くために何を神に差し出そうか。これまでの行いはだめだ。その事はもう神に言われた。私の人生は暴露され、裸の姿で神の御前に立った以上今更何が言えよう。乞い願うなどできるだろうか。

  私の持ち続けてきた「偽りの神」、それは「自分自身」だった。それまで自分の所業はすべて、まず自分のためだった。イエスのことを説くのも自己満足のため、すべての奉仕も良心を和らげるため、主イエスの証しをしてきたのも単に義務感の産物だった。ただ聖書に書いてあるからという理由です。マタイ6章33節の本当の意味がわかっていなかったため、自分本位にやっていたのです。このマタイ6章33節はしっかりと心に刻みつけておかねばならぬ戒めです。「まず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、すべて他のものは添えて与えられる。」

  ところが私の場合はあべこべでした。「すべて他のもの」を第一に求めていて、時間があったら神に捧げようと思っていたのです。しかし、神はそんな事には我慢なさいません。パリサイ人の時代にもそれに我慢しなかったし、生ぬるな現代の「ラオデキアの教会」の時代にも我慢するつもりはないと、神は言われました。主イエス・キリストこそまず第一におくべきです。なぜなら、主はご自分が二の次にされるのを拒まれます。肉に仕えることに無駄に時を費やし、残った時間を神に費やそうとするのは、神への冒とくだからです。当然神はそんな事を望まれもしないし、受け入れもしません。このことを神から直々(じきじき)に言われました。確かにその通りです。

  次回、神の御前に立つ時はこう言われるでしょう。「よくやった。良き忠実な僕よ。」あの時、神から命ぜられて以来、それに従うためにたゆむことなく頑張ってきました。楽ではありませんでした。家をたたみ、子供や孫や家畜や土地その他全てを後にして、バンやトラック、モーテルなどでの移動生活が始まりました。でも主は、「よくやった。良き忠実な僕よ。」と言って下さることでしょう。マタイ6輩33節の意味を悟ったからです。

  第三の天へと向かいながら、一体神にどうやって嘆願しようかと考えていました。そこで思い当たったのがヒゼキヤです。

  若かった頃、神学校でヒゼキヤについて勉強しました! そうです、彼はなかなかぴったりの例です。あのヒゼキヤの心の内には良いことをしようという思いはあったのですが、日常生活でそれを行動に表すのが難しく、どうしても実行に移せなかったのです。私もそうでした。ああ、私の動機は純金のように純粋だったのに! そうだ、この事を神に申し上げよう!

 

神への嘆願

 

  再び第三の天の門に戻った時に、最初にここに立った時のことを思い出しました。前回ほどの厚かましさはないものの、お答だけはぜひとも聞いておきたかったのです。あの怒号がまたもや壁越しに落ちてくるのではないかと恐る恐る近づいてみましたが、杞憂(きゆう)でした。神の口調には怒りはありませんでした。私の言葉に耳を傾けられ、それから私を哀れむような口調で話し始められました。実際、悲しんでおられたのでした。

  我々人間と万物の創造主である神、威厳と力に満ちた神が、この私を構って下さったのです。つまらない、取るに足らない私の話に耳を傾けて下さったのです。

  再度機会を与えられるに足る口実がないものかと神の御前で言葉を懸命に探しました。ぶしつけにならぬよう、恐る恐る話を切り出すと、過去にもやってみたが、無駄だったという答えが返ってきました。生き返らせていただく口実を探してみても見つからない。何か言葉があるはずです。何かあの方を納得させるに足るものがあるはず…

  「溺れるものワラをもつかむ」の例えのとおり、思いつくことは手あたり次第言ってみましたが…いや、ある! ひとつだけある! 今まで気にも止めていなかったものだが、うまくいっていた。私は最後の頼みの綱にすがることにしました。神に約束することです。皆さんも経験があるかもしません。苦難の嵐のさ中に、「主よ、助けて下さい。誰よりも善良なクリスチャンになりますから」と祈ったことが。そして2、3日たち、嵐がおさまった時にはすべてを忘れてしまうのです。

  「父なる神よ、今ここでもう一度機会を与えていただけるなら、私は約束します。今度はもっとよくやります。」 言うべさではなかったのに…。すると、あの方は私の名を呼び、こう言われました。「ハワード・ピットマン! お前には前にも約束した。」 それ以上は言われなかった。またその必要もなかった。私には過去35年の間、神に数々の約束をしてきましたが、どれ一つとして守られていない。神にした約束をまんまと破り続けてきたのです。それにしてもすべて守られていなかったとは…。約束した時には、守ろうという気持ちは確かにあったし、不純な動機はなかった。

  「口先だけの善人には、地獄もそう遠くはない。」 良い事をしようという気持ちさえあれば、天国に行けるなどと考えてはいけません! そうではないのですから。

 

神こそ我が父

 

  あの方のお話しが終わりました。もう私には何も言うペき言葉が残っていません。打ちのめされ、がっくりと膝をつくと、自分の罪の探さにただうなづくばかりでした。その時です。言葉では言い尽くせないほど素晴らしい事が起こりました。今まで盲目だった私の心の目がついに開かれたのです。魂が、さん然たる光に満たされました。いと高さ神の叡智(えいち)から放たれる光です。玉座に座しておられるのはもはや、全地にその御力を及ぼすあの崇高なる神ではなく、まことの父、最上の友でした。私は生まれて初めて、神というものがわかりました。真の父です。

  素晴らしきかな我が父、驚くべきこの経験、無上の交わり。神は父である以上に友でもあるのです。どんな悩みも打ちあけることができる方です。この日、まことの父とのきずなはこの地上での父親とのさずなよりも何百万倍も強かったのです。

  そして間もなく私は「心の痛み」に襲われました。「父」が私の事で心を痛めているのを知った今、それは肉体の苦痛など比べものにもならない程でした。「父」は私が不従順であったがゆえに心を痛めておられたのです。それが私にはこのうえなく心苦しい痛みとなって返ってきました。私の心が痛む時に、神も心を痛められます。どうしたら、この苦しみをわかって頂けましょう。子を持った親であれば、私の言わんとする事は誰よりもよくおわかり頂けるでしょう。

  例えば、子供から危ないことをしたいとせがまれるとします。当然あなたは怪我をするのを心配して駄目だと言いますが、そのとき心の痛みを感じるはずです。それでも子供は親の目を盗んでそれをやってしまったとします。すると子供の悲鳴が聞こえる…。当然、あなたは最初ムカッとするでしょう。けれども、行って子供を抱きあげ、悲しそうな表情と頬にこぼれる涙を見て、たちまち始めの怒りは何処かへ消えてしまう。子供の悲しみがあなた自身の悲しみとなり、子供に代わって自分がその悲しみを負いたくとも、どうすることもできません。神も同様です。私の悲しみや苦しみを取り去ることはできません。

  この世を救うために、主イエスは死なれたと、私は常々伝道してきました。しかし、この時になって初めて、それがどういうことなのか、何のために主イエスが死なれたのかを真に理解したのです。ただこの世を救うのが目的ではなかった。あなた自身を救うために死なれたのです。それほどあなたという人間は貴重な存在です。

  救いというものは一人一人のものです。主イエスが愛しておられるのはあなたであって、たとえ世界にあなた一人しか存在していなくとも、やはり十字架にかかって死なれたことでしょう。イエスが十字架から降りなかったのは、手足を釘付けになっていたからではなく、あなたという人間を愛しておられたからです。それほどあなたは大切な存在なのです。

  人は神にとっていかに「貴い」存在であることか…やっとそれを理解したのでした。

  自分の地上での命など、もはや重要でも何でもなく、神の存在、それこそが重要なのだと考えられるようになったのです。自分の命がもはや重要と思わなくなった時に、その時に初めて、神は返して下さいました。帰ってきた「放蕩息子」は、とうとう神に耳を傾けたのでした。

 

神はかく語りき

 

  では神がこの世に伝えるため、私に語られた五つのポイントをお話ししたいと思います。創造主の御座から頂いた御言葉です。第一のポイントは、今日のクリスチャンと称する人々に向けて語られたものです。黙示録の、諸教会に書き送られた書簡の最後にあたる「ラオデキアにある教会にあてた書簡」(3章14−22節)をお読みになって下さい。この書簡は神御自身が、私達の時代に向けて書かれたものであることは間違いありません。私達の生きている時代はラオデイキア教会の時代です。3章14−22節は皆さんにあてて書かれているのです。じっくりと読んでいただきたい。と言うのは、己の満足の為に日曜日に教会に行き、残る6日間はサタンと寸分変わらぬ生活を送っている現代の大多数のクリスチャンの事が書かれているからです。知的ぶったうわべだけの宗教でありながら、自分達の恐るべき状況には何ら気がついていません。

  この書簡は現代に向けて書かれています。今こそラオデイキア教会の時代、つまり、教会史の終焉(えん)にあるからです。

  第二に、人にとって、サタンも身近な神であり、身近な悪魔なのです。悪霊どもの神、救いを知らない人々に対する神であると同時に身近な悪魔であって、主が皆さん一人一人に働きかけられるのと同じように、悪魔も皆さん一人一人に働きかけるのです! 人を欺く大嘘つきの、憎むべき敵です。

  サタンはほえたける獅子のように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている、とペテロは言っています。そうです、戦って勝てる相手ではありません。ただし、これだけは覚えておいて下さい。主に属する限り、あなたはサタンよりはるかに強大な力を持っているのだということを。サタンとその配下の悪霊どもに命令すらできるのです。自分のする事はしっかりわきまえておかなくてはいけません。

 第三に、活発なクリスチャンやクリスチャン・リーダーは、クリスチャンであることに生きない限り何の力もありません。まさに言葉のみにならず行ないにおいて…です。御言葉を信じるのはほんの序の口にすぎません。1週間のうち7日、御言葉に生きなければならない。1日のうち24時間御言葉を行なわなければならないのです。家庭でも、近所の人に対しても、職場においても、御言葉通りに生きなければならない。何をするにせよ、神の栄光のために、つまり神の国を優先して行動して下さい。皆さんの優先順序はがらっと変わったのです。コリント人への第二の手紙5章17節にはこのように書かれています。「古いものは過ぎ去った。すべてが新しくなったのである。」 キリストに仕えることが人生の目的となるのです。あなたはもうこの世の市民ではありません。あなたの市民権は神の国にあり、優先事項はすべてそこにあるのです。

  第四は、今この世界は第二のノアの時代にあるということ。人の子が現れるのも、ちょうどノアの時のようでしょう。嵐が近づいている事などこれっぽっちも考えずに、商売や仕事や将来の計画に毎日明け暮れています。見ようともせず、また聞こうともしない。主の来られるあらゆるしるしが次々に現れてきているのに、目には入っても見ず、耳に入っていても聞こうとすらしない。主の来臨は近いというのに。

 第五に、これはペンテコステ以来の最高の良き知らせです。新たに生まれ変わった神の子たちにとって、跳びあがらんばかりの福音です。それは、神がたった今、軍隊を編成しておられるという事です。今度は、その軍隊でこの世界を揺さぶろうとしておられるのです。これが目的です。主はエリアの霊をその軍勢に注がれます。この、神の偉大なる御力で、文字通りこの地をもう一度揺さぶろうとしておられるのです。皆さん! あなたがその軍隊の一員になられるなら、何と祝福されている事でしょう。

  主の来られる道をまっすぐにするために、エリヤの霊をこの世にもたらすことになるからです。主の再臨は間近です。

 今夕、この教会の中にもその軍隊の一部が結集しています。皆さん全員がその軍隊の一員であることを願います。それは、素晴らしいことであり、驚くべき祝福になるのですから。

  「美しの門」のかたわらを通っていたペテロとヨハネが、生まれながら足の不自由な男に手を伸ばしていやした奇跡の場面が想像できますか? 「金銀は私にはない。しかし私にあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩さなさい。」とペテロが言ったのです。

  「キリストの兵士」である皆さんに申し上げる。あなたがたはイエスキリストの名によって、これよりもはるかに偉大なる業をなし、天より炎を呼び下ろして、墓から死者をよみがえらせることさえするのです。

  これは間もなく現実となります。皆さんはペンテコステの日よりもさらに驚異的な威力を目の当たりにするのです。あなたがたがその目で見ても世の人は認めようとはしないでしょう。しかし、皆さん。今ここでどうしてもお伝えしておきたい事が一つあります。それは皆さんが主の救いを受け入れて新しく生まれ変わらない限り、この素晴らしい知らせに何一つとしてあずかることはないということです。小羊の命の書にあなたの名が記されていなくてはなりません。

  聞いて下さい。この世の私自身の手による行ないは一度、灰じんに帰しました。確かに、皆さんは一生懸命働けば素敵なマイホームも持てるでしょう。この世でしたい事をどんどんやって、物や富の追求にすべてを注ぎこむこともできます。けれどもそれでは炎の試練には耐えられないでしょう。ただ自分のために欲するままに行ない、はんのわずかだけ残った時間を神に捧げる…これではいけないのです。ただ自己満足のためにやるのなら、教会に来るよりも銀行強盗でもしたほうがいいでしょう。自分のために教会に来るのはおやめなさい。神はそれを我慢なさらないでしょうし、神への冒とくだからです。

  はっさり申し上げます。神の御前まで、私は行って来たのです。そしてこの目で見たことを「証し」しているのです。

  神はこう言われました。「大勢が私の言うことを聞くであろう」と。確かに何百万もの人が既に聞きました。しかし、神はその後でこう言われました。「本当に耳を傾けるのはほんのひと握りに過ぎない。」と。あなたはその中の一人でしょうか? それとも、神から速く離れていますか?

  神は財布に残っているわずかな金を受け取ることを望んではおられません。よろしいですか? あなたが神にまず最初に捧げることを望んでおられるのです。その後幾らかでも手元に残っていれば、自分の為に使ってもよいでしょう。くれぐれも最後に残ったものを捧げることのないように。神は絶対お受けになりません。何事においてもまず、神に捧げることを望んでおられるからです。

  これは私達の時間についても同様です。そして何よりも望んでおられるのは「あなた」自身です。それはど、あなたは貴い存在なのです。だからこそあなたのために十字架にかかられました。

  ですから、主を知ることなく、ここを出てはいけません。また主を知っているだけで、主に仕えないのもいけません。そしてここを出て行く時には、目を上げて下さい! あがないの日は近づいています!