クリスチャン・ダイジェスト

提 供

 

アフェクション

−−愛のこもった「ふれあい」

(クリスチャン・ダイジェスト・スタッフによる要約と編集)

 

1巻10号−−1993年4月 DFO

クリスチャン・ダイジェストは、全く営利を目的としない出版社です。この小冊子は私的な出版物であり、特定の人々に無料配付されています。よって非売品です。

 

今回のクリスチャン・タイジェストでは、真のクリスチャンであることのしるしの一つを取り扱っています。それは、神からの純枠な愛と、それを直接他の人達に示すことです。これは、イエスがこの地上を去る時に与えられた戒めの一つであり、イエスは、それによって人々は私達か神に属する者であることを知ると言わわました。「わたしは、新しい.戒めをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者か認めるであろう。」(ヨハネ 13章34章、35節)

英語の「アフェクション」(「触れ合うことを通しての愛情表現」といった意味)という言葉にあたるギリシャ語は、聖書ではよく「愛」と翻訳されており、新約聖書にも使われています。福音書でイエスが「深くあわれみ」、らい病人を癒した個所や(マルコ1章41節)、「群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになった」(マタイ9章36節)個所などです。パウロは書簡の中で、「私がキリスト・イエスの熱愛(優しい憐れみの心)をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか、それ証明して下る方は神である。」と語っている所で、その言葉を使っています。(ピリピ1章8節)

それは、完全な思いやりと深い愛の両方を表わす言葉なのです。

以下の記事は、クリスチャンの著者によって書かれたものもあれば、そうでないものもありますが、どれも、愛、愛情表現、触れあい、抱擁、お互いを思いやることの重要性を強調しています。皆さんが他の人に手を差しのべ、彼らの重荷をにない、「愛をもって互いに慈しみ」、「何よりもまず、互いの愛を熱く保つ」ために、これらの記事が助けになるよう祈っています。(ガラテヤ6章2節、ローマ12章10節、1ペテロ4章8節)

 

タッチ療法

ヘレン・コルトンの著書からの抜粋

 

(ニューヨーク:ケンジントン・パブリッシング、1983)

 

触れること−失われた感覚

 

触れることは、感覚の中でも最も重要であり、不可欠です。人は視覚なしでもやっていけます。盲目の人々がそうです。また、聴覚なしでもやっていけます。聾唖者がそうです。味覚なしでも大丈夫です。私達の多くは味覚が純っています。また、臭覚なしでもやっていけます。臭覚は、寝ると真っ先にその機能を停止し、起きても他の感覚のようにすぐには機能しません。それが理由で、就寝中に火事の煙の臭いに気づかないことがよくあるのです。

  しかし、触れるという感覚がないなら、生きていても何の慰めも感じないばかりか、精神を健全に保つこともできません。触覚を完全に失うと、神経衰弱こ陥ってしまうのです。

  人は皆、「スキンシップへの強い渇望」を生まれつき持っています。出生時には、体の中でも最大の器官、つまり皮膚を通して、すべての感覚と情報を得ます。誰かに抱かれる時に感じるその暖かい感覚や、母乳を飲んだり、ほ乳ビンから飲む時に、その人の心臓の鼓動のリズムを感じとる事は、生きるのに必要不可欠です。そうした感覚が、電気的刺激を生じ、その刺激が神経を伝わって生理的反応を引き起こし、その結果、脳が機能し、発達するのです。

  赤ん坊は、十分に授乳され、おむつもきちんと交換してもらい、お風日に入れてもらい、だっこされていれば、触れられる必要の一部は満たされますが、次のセクションで話すように、それでは十分とは言えません。しかし、自分で自分の世話ができるようになってくると普通、肌の触れ合いは、非常に少なくなるか、全くなくなってしまいます。私逮の多くは生涯に渡って肌の触れ合いに飢えています。感覚の必要がまるで満たされず、「触れる」事に対する飢えが十分満たされる事からくる素晴らしいフィーリングを経験する事がほとんどないのです。

 「皮肉なことに、現代社会は触れ合うのを不愉快に感じ、普通は奨励しないものの、金儲けとなると、正反対の態度をとります。テレビのコマーシャルや雑誌の広告の多くが、触れることからくる快感にアピールしています。トイレット・ペーパーのコマーシャルでは、それがいかに「ソフトな感覚」かを宣伝します。また、このブランドのシェービング・クリームやローションを使うと、なめらかな手ざわりになり、あのブランドのシャンプーで洗うと、思わず触れたくなるようはサラサラの髪になるというわけです。しかし、例えば、「聖なる接吻で互いに挨拶する」こととか、心のこもった挨拶としての抱擁など、宗教的な愛や信仰に基づいて触れることについて誰かが話すと、そういう人は、奇妙だとか、ヒッピーみたいだとか、性欲が強すぎるなどと思われるのです。

  自然に相手に触れられるようになるには、かなりな時間や努力を要するようです。私達は触れることの必要性について話しはしますが、行動には移しません。以下の、私達がよく使う表現について考えてみて下さい。

  何かにほろりとさせられたり、感動したりすると、私達は、「心に触れた」と言います。素晴らしい話し手には、「先ほどの話は、本当に心に触れました」と告げ、詩人なら「春の感触が漂う」と歌います。優しく寛大な人のことを「人あたりの柔らかな人」とも言うし、英語では、怒りっぽい人には、そんなにぷりぷりしなさんなという意味で、「そんなに『タッチー』になるなよ」と言います。(もっとも、その人が「タッチ」、つまり「触れ合うこと」を心がけていたなら、きっとそんなに怒りっぽくなかったことでしょうが。)

  同じく、英語では、友人や親戚、同僚、知り合いなどと遠く離れ離れになる時に、「レッツ・キープ・イン・タッチ(連絡を取り続けようね)とよく言います。これも、ただ言うだけではなく、実際に相手に触れながら言うなら、きずなは一層強まることでしょう。

  そもそも、私達に触覚があるのは何故でしょう? 神はどうして、体全体をおおう皮膚に、何百万もの感覚器官を備えられたのでしょうか? 何よりもまず、触覚によって私達は危険を感じとります。温度、振動、圧力などを通してです。触覚のおかげで、人類の生存が可能なのです。

  指や手が熱い鍋やコンロに触れると、考える間もなく、反射的にその危険から体を引き離します。氷水の中に手を入れても、やはり反射的に手を引き、痛みを逃れます。感覚器官は、このように極端に高いか低い温度は体に良くないと知っているのです。

  はしごを登っていて、その両側をつかんでいる時、その微妙な振動によって、感覚器官は、はしごが不安定で危ない事を感じ取ります。また車を運転していて、ブレーキを踏む時、足の裏に感じるちょっとした振動から、ブレーキがいつものようにしっかりかかっていないという警告を受け取ります。

  主が私達に触覚を与えられたのは、一つには、私達に情報を与えるためです。つまり触覚によって、様々な表面や動きの違いを知るのを助けるのです。今、近くにあるものを軽く指先で触れてみて下さい。触わった感じから、つるつるのガラスとすりガラスとの違いや、サンドペーパーとなめらかな紙、陶器と紙皿の違いがわかることでしょう。違いを敏感に感じ取ることができるので、自分の指の間で転がしているのが、一粒の米なのか、あるいは一粒の砂なのかも区別できます。指先には、神経の末端が1センチ四方につき2百もあります。指先全体で触れる必要さえなく、多くの場合は、爪先で触れるだけで違いが区別できるのです。

  触覚は素晴らしく敏感なので、触れられる強さの程度によっても私達に情報を与えることができます。強く触れられると、軽く触れられた時以上に末端神経を刺激することになります。軽いタッチは一般的に、愛情深さ、優しさ、または性的な感覚を伝えます。体の同じ部分に触れられた場合でも、強く押されるなら、「止めて。もうしないで。」という警告を発することもあります。

  物を触れる時の力の程度で、私達のストレスの度合いをかなり正確に測ることができます。電話で話している時、力いっぱい受話器を握りしめますか? 鍋を洗う時、家具の塗装をはがす時と同しぐらいの力をこめてこすりますか? 自分がしていることに対する感情を、力を入れることによって吐き出すことで、自分が一日を通して、どれほど不必要に力を消耗しているかに気付くようにして下さい。あまり手に力を入れすぎないようにするなら、ストレスを和らげる助けになります。

  何かに触れることで感覚器官が刺激を受けると、どう反応するでしょうか? その刺激は微量の電気反応を起こし、神経細胞へと伝わります。体内には、一千億の神経細胞があります。神経細胞は一つ一つが、「シナプス」と呼ばれる接合郡によって隔てられています。電気が神経細胞を伝わるにつれ、化学神経伝達物質を刺激し、それがシナプスに伝わり、次の神経細胞でまた電気反応を生じさせる、といった具合にどんどん伝わっていくのです。モールス信号と似たようなものです。あなたが誰かに触れる、あるいは誰かがあなたに触れると、それがスイッチを押して、メッセージを発するのです。脳は受信機なのです。

  誰かに優しくなでられたり、抱擁されたりするなら、脳はそのメッセージを快感帯で受け取ります。また画びょうを踏んだり、つま先をぶつけたり、間違って舌を噛むなら、脳は苦痛帯でそのメッセージを受け取ります。(舌を噛むと非常に痛みますが、それは舌には感度のとても高い感覚器官があるからです。)

  電気反応が脳に適すると、神経化学物質の分泌を促します。神の造られた人間の脳は、世界で最も素晴らしい薬剤製造所です。脳では、化学物質や化学化合物が分泌されており、それらのものは、私達が薬という形で取る化学合成物質の働きをほとんど一つ残らず行なうことができるのです。実際のところ、薬剤工場は、脳で製造されている化学物質と同じような効果を持っ薬品を「模造」することに日夜取り組んでいるのです。こうした化学物質は、血液中のホルモンや酵素と結合して、私達のムードや感情や気分を造り出します。

  ですから、血液中の化学物質のせいで気がふさいでいる時に、あなたの事を気づかう暖かい人に抱擁されると、そうした触れ合いの結果、脳において、落ち込んだ気分を造り出している化学物質の働きを打ち消すような化学物質が分泌され、気分が良くなります。こういったことが、何と、百万分の一秒という瞬時に起こるのです。ドイツのゲッティンゲンにあるマックスプランク生物化学研究所のマンフレッド・アイガン所長によれば、触れるという感覚的刺激が与えられてから、脳が化学反応を起こすまでには、それぐらいしかかからないそうです。

  さて、手を眺めてみて下さい。手は、実に驚異的な部分です。脳の構造を見ると、手につながっている部分が、顔や口の次に大きな皮質部分を占めています。脳の構造中、手の中で一番大きな部分を占めているのが親指です。他の指より短いものの、親指は一番万能です。手のひら全体に伸ばすことができ、こぶしを作ると他の指を包むことができ、また一番大きく回すこともできます。

  触れることは言葉にもまして相手に愛情を伝えます。恋人と一緒にいるとしましょう。そしてあなた達二人は、何か素晴らしいものを見ます。そして互いの手を取り、女優リヴィ・ウルマンの言う「秘密の握りしめるサイン」を送ります。「この喜びを共に分かち合っている。これは二人だけのもの。誰も中に入り込むことはできない。」というサインを。

  恋人同士が喧嘩した時、仲直りへの第一歩は多くの場合、互いに触れることです。会話よりも、まず、触れることの温かみや感触が、互いの心の傷をいやし始めるのです。

  「愛しているよ/愛しているわ」と言うのは、そういう音の組み合わせを空中に発することです。けれども、愛する人に触れるなら、そうした感情を相手の体に伝えることになり、相手は、あなたの愛を感じるのです。ある主婦は、彼女がコートを着るのを夫が助け、肩を優しく抱きしめる時、嬉しくて膝がガクガクすると言っています。また別の女性は、「1日24時間ずっとじゃなくても、毎日夫に抱きしめられる方が、キャデラックの新車をもらうよりいい。」と研究者に話しています。

  デスモンド・モリスは、こう語っています。「美辞麗句を並べたてるよりも、ただ少しの温かな触れ合いを持つほうが、ずっと効果的である。感情を伝えるのに、触れ合うことがどれほど力を持っているかは、驚くほどである。

  触れることは、以前はほとんどタブー視されていたものの、時代は変わっています。触れることに対する私達の態度が変わってきていることを示す傾向は沢山あります。(編集者:残念なことに、「多くの人の愛が冷える」(マタイ24章12節)につれ、児童虐待の問題がヒステリックなまでに取り上げられ、恐れを引き起こしていることも一因となって、90年代ではこの傾向が昔の「タブー視」に逆戻りしています。)世界教会協議会は、例年集会で、「タッチ・ワークショップ」を後援しています。教会によっては「ロック・ミサ」を行なっている所もあり、それは、楽しい音楽にあわせて教会員達や訪問者達が互いに手を握るか、抱きしめ合ってミサを終了するのです。パサデナの監督教会でロック・ミサが行なわれた時には、教会内で、全く知らない人が私を腕に抱き、踊ったのでした。全世界結婚集会では、宗教関係の団体に所属する1万5千人が、南カリフォルニア大学のキャンパスに集まり、「世界最大の抱擁」をしました。

 

誕生−−最初ののスキンシップ

 

  新生児は、成長するために、ミルクだけでなくスキンシップによっても養われねばなりません。リネー・スピッツ博士は、病院で、捨子や、母親が服役中の赤ん坊に接しながら、ある事に気づきました。十分にミルクをもらい、非常に優れた衛生状態に置かれているのに、これらの新生児の間で、マラスムス(ギリシャ語で「適当な医学的原因もなく、肉体がしぼんだり、衰える」という意味)という病気による死亡率が非常に高かったのです。さて、休暇でメキシコを訪れていたスピッツ博士は孤児院を訪問しました。衛生基準は劣っていましたが、そこの赤ん坊達はより快活で、元気そうで、物事に敏感に反応し、しかもあまり泣きません。そこでわかったのは、村の婦人達が毎日そこへやって釆ては、赤ん坊達を揺らしたり、抱き上げたり、話しかけたり、歌ってやったりするということでした。その後、博士は何千人もの赤ん彷を観察しましたが、スキンシップを受けた赤ん坊達はどんどん成長したものの、ゆりかごに一人残されている赤ん彷は病気になりがちでした。彼らの細胞は肌の接触に飢えて死にかけていたのです。

  未熟児に対するスキンシップの効果をテストした研究者達も、似たような結論に達しました。サウスキャロナイナ大学医学部で、15分の刺激を一日4回毎日受けた「未熟児」達は、全く刺激を受けなかった未熟児よりも体重が増え、早く成長し、しかもミルクを飲む回数は少ないことがわかりました。エモリー大学の看護学生、メアリー・マックフォール・ジャンコヴィックは、これに関してさらに研究を進めました。12人の未熟児の記録をつけ、「抱きかかえられ、なでてもらった未熟児達は、授乳の後で、よりリラックスした様子を見せ、脈拍、呼吸数、筋肉の緊張度、首の高緊張度など、すべてが減少し、泣くことも少なくなる」という結論が出たのです。

  スキンシップという栄養豊かで脳に刺激を与える食物で十分に養われた赤ん坊達は、はいはいしたり、歩いたり、話したりし始めるのが早く、知能指数も、十分にスキンシップを受けない赤ん坊よりも高くなる傾向があります。バージニア大学医学部では、92人の子供達を対象に、スキンシップと揺することの効果に関する研究が行なわれました。乳幼児期に親からかなり刺激をもらった子供達とそうでない子供達との間には、言葉や記憶力、新しい情報の習得、問題解決などの能力において、確かな違いが見られ、刺激をもらった子供達のほうが優れています。感覚器官を通して、自分が深く愛されていると感じている子供達は、簡単にうまく物事をこなすそうです。(大人も同様です!)

  触れる事による刺激を受けると、乳児の知能が発達するだけでなく、出生の際に生じた障害の影響を減少させる事もできるのです。ロサンゼルス在住のロビンソン夫妻がこれについて、エキサイティングな証言をしています。1979年、奥さんのシャーリーが難産の末、男の子を出産しました。「スターリングが生後6週間頃、同じ頃に生まれた他の赤ちゃん達と比べて大きな違いがあるのに気づいてぎょっとしました。目の使い方が極端に違っていて、スターリングは、私も他の何も見ていなかったのです!」

  検査の結果、この子は目の前に照らされた光にも反応せず、光を目で追う事もしないとわかりました。血管破裂、つまり卒中だったのです。「ケイレン性皮質盲目症」と診断されました。眼科医からも、神経科医からも、スターリングは何も見ることはないだろうという返答しか返ってきませんでした。

  3ヵ月の時にスターリングは発作を起こし始め、薬が処方されました。シャーリーは、健康食品を信じており、薬物療法は信じていなかったので、鎮静剤を息子に与えるのはどうしても気が進みませんでした。悲観的な診断を受け入れたくなかったシャーリーは、息子の助けになりそうなプログラムを必死に捜しまわり、ある日、妊娠と自然出産センターの所長であるマーガレット・マーティンを訪ねました。彼女は、脳損傷児を助けることで有名な、フィラデルフィアの「人間の潜在能力発達研究所」での講座を終了したところでした。それを受講するには、1年も待たなくてはならないことがわかったシャーリーは、こう考えました。「そんなに長く待っていたら、スターリングは貴重な時間を失ってしまう。脳損傷児が、回復を助ける可能性のある処置を毎日受けていないなら、その子供は日毎に障害が悪化してしまう。」

  そんなある日、ロビンソン夫妻は、カリフォルニアのラハブラにある、脳障害児救援財団のコマーシャルをラジオで耳にしました。そこで、スターリングは検査を受け、彼の脳を刺激するプログラムが作られました。「パタニング」として知られる方法で、子供の頭を担当する人が一人と、両脇に一人ずつ、計3人が必要とされます。早く、しかも同時進行の形で、3人がスターリングの頭と腕と脚を動かし、円を描いたり、上下左右に揺り動かします。また、スターリングを回転椅子に乗せて回したり、床の上を転がしたり、マッサージをし、抱きしめ、軽く叩いたり、くすぐったりもしました。シャーリーは、「どれを行なう時にも常に、愛と明るい態度でなされました。」と報告しています。そして、タッチ・アンド・モーションプログラムを始めて1ヵ月で、スターリングは見えるようになったのです! 現在、医師達の予測に反して、スターリングの目は完全に見え、年齢相当の筋肉調整はできないものの、進歩を遂げており、はったり歩いたりできるようになりつつあります。

  「スキンシップ」を十分にもらっていない赤ん坊達は、どうなるのでしょうか? この、満足を与える栄養をもらわず、飢えた脳の回路を持った赤ん坊は、暴力的になる素因が作られる可能性があると信ずる科学者もいます。以前に、アメリカ保健教育厚生省の子供の健康及び人類発達国立研究所に所属していた神経心理学者、ジェームズ・W・プレスコット博士は、「暴力の主な原因は、幼い頃のスキンシップから得る身体的快感の欠如である。」という驚くべき発言をしています。博士は、現在と過去、合わせて49の社会を研究し、「成人になって肉体的暴力を振るう傾向があることと、子供の頃にスキンシップなどといった身体的な愛情表現を受けなかったこととの間には強いつながりがある」ことを発見し、以下の結論を出しました。「乳幼児にスキンシップによって豊かに愛情を表現する文化、すなわち触れたり、抱きしめたり、抱えて歩くなどする文化では、成人間の暴力の発生率が低かった。逆に、子供達への身体的愛情表現の少ない文化では、成人の暴力の発生率が高かった。」

 子供を気づかう愛情深い人々は、生来の権利であるスキンシップの喜びを、すべての子供が味わうために、何をすればいいのでしょうか? 自分の周りに幼い子供がいなくても、私達は各々が関心を示して、新しい育児観を奨励し、すべての赤ん坊に誕生時から温かい抱擁などを提供する責任を社会が担うようにしなければなりません。「泣いている子供を抱き上げると、子供を甘やかして、だめにする」という、一般に広まっている観念に終止符を打たねばならないのです。

 子供が泣くのは、大抵必要が満たされていないから、つまり抱いて欲しいとか、相手にしてほしい、寒い、おむつが濁れている、あるいはお腹が空いたからです。子供を「だめにする」、すなわちその繊細な霊に吾が及ぶのは、必要が演たされない時であって、満たされすぎる時ではありません。大人の自分の事を考えて下さい。自分の必要が満たされないと、いらいらし、怒りっぽくなりますが、満たされていると幸せに感じ、他人に愛情深くなったり、親切にしやすいものです。

  赤ん妨の感覚的体験を高めるその他の方法を紹介しましょう。子供は、子宮にいた頃と同じような温度や動きや振動が好きなことを念頭に入れておくのです。乳児にとって、最も重要な「家具」は、腕というゆりかごです。

  子供が何度も同じ行動こ対して叫ぶなら、感覚的な不快感を引き起こしている原因を探して下さい。ある母親が、4ヵ月の息子はおむつを取り替える度にヒステリックになると言いました。取り替え方を見せて下さいと頼むと、その母親は、おむつを外し、タオルを水で濡らして、乳児の暖かい股を拭いたのです。冷たい水でぴしょぬれのタオルを、いきなり1日に何度も自分の暖かい股にあてられたら、私だって悲鳴をあげることでしょう!

 

家庭生活でのスキンシップ

 

  親は子供に食事を作ってやるし、時には車であちこち連れて行ったり、アイスクリームやおもちゃを買うお金をくれたりするかもしれませんが、親から抱きしめられたり、なでてもらったり、ボンと肩をたたかれたりするほど、心に深く残るものはありません。私達に愛を感じさせるのは、家族が<れる物やしてくれる事ではなく、触れられる時に感じる身体的な温かみなのです。その時の感触が、感情になります。家庭生活というゆりかごで、愛情深く抱きしめられたり、触れられたりすることほど、自分は価値のある存在で、愛されているという安心感を与えてくれるものはありません。自分は価値のある存在だという確信があってはじめて、人は、人生の荒波を乗り越えるだけの不思議な内面の力を持って社会に出て行けるのです。

  抱擁という包帯は、心の傷を優しく包んでくれます。抱擁は、傷ついた人を暖かく包み込んでくれるのです。私がいつになく苛立ち、普段なら冷静に扱うような些細な事柄で腹を立てたり、電話で鋭く言い返したり、涙が出そうに感じる時に、「どうしたんだろう? なぜこんな風に振舞うんだろう?」と自問すると、「一服」必要なことに気づくのです。しっかりと抱きしめられてから久しいということです。私の魂に慰めが必要で、愛に満ちた触れ合いこそ、その唯一の方法なのです。

  私達アメリカ人は、物質的には惜しみなく与えるものの、愛する者達を喜ばせるような、ちょっとした意思表示は非常に出し惜しみします。海岸や公園、遊び場やショッピングセンターの親子を観察した研究者達は、子供達のほうから、愛と慰めに満ちたスキンシップを求めても、親が反応しないことが多いということを発見しました。よく見られるのは、幼い子供が母親の頬に触れ、腕を母親の首に回しても、母親が何のお返しもしないといった光景です。ケガをした子供を慰めるのにも、抱きしめてやったりするのではなく、クラッカーやキャンディやクッキーを与える親が多いのです。(これがしばしば肥満の始まりとなるのは疑いもないでしょう。大人になって、真にほしいスキンシップという食物が得られないので、その代わりに、胃のための食物に手を出すのです。) 親が子供に触れるのは、大半が、鼻を拭くなど、清潔にするためや、子供が遠くに行かないようにするなど、行動を統制するため、また他の子供のおもちゃを取ったことなどで罰を与えるためでした。ある父親は、遊び場で新聞を読みながら、子供を「監督」し、私が観察していた1時間に、子供と身体的な接触は一度もありませんでした。子供を捕まえて楽しそうに抱きしめたり、頬や背中を撫でたり、その他どんな形であれ、体を使っての意思表示によって、親であることや子供を持つことの喜びを表現した親は一人もいなかったのです。

 

 

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1日4回の抱擁で気分爽快

 

  トロント(UPI)−−「1日4回抱擁をすると、憂うつさを吹き飛ばす。12回ならもっといい。」と、ある社会料学者が語っている。

  パージニア・セイター博士は、アメリカ矯正精神病学協会の年度会議で、4千人以上の出席者に対して、もっと体の触れ合いを持つなら皆が幸せになると発表した。

  セイター博士は、30年程前には自分の「触れ合い」説のせいで「色情狂」呼ばわりされたと言うが、記者達に、一日4回の抱擁は生き延びるのに必要であり、8回の抱擁は健康維持に役立ち、12回の抱擁は精神的成長を促すと語った。

  セラピスト兼、著述家、ソーシャルワーカーでもあるセイター博士はこう語る。「私達の肌は愛のメッセージの伝達機関です。身体的接触が持てるというのは非常に大切なことです。」

  アメリカの軍隊や大学においてカウンセルを務めてきた同博士によれば、北アメリカ人は身体的接触に欠け、「我が国では、タッチ(身体的接触)と言えば、大半が、フットポールの試合で体と体がぶつかり合う時ぐらい」だそうだ。

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  ミネソタ大学の社会料学者、ポール・ローゼンバット氏の観察結果を見ると、子育てによって私達がどれだけ喜びを得ているか、疑問を覚えずにはいられません。同氏は、公共の場で、子供のいる夫婦と、子供のいない夫婦の行動を記録しました。子供のいない夫婦は、もっと頻繁に触れ合い、腕を組んで歩いたり、手をつないだり、キスをしたり、その他の愛情表現をしました。子供のいる夫婦は、触れ合うことも、話すことも、微笑むことも、ずっと少なかったのです。私達の文化は、子供中心の文化であると盛んに言われていますが、果たして本当にそうでしょうか? 私達は、子供達と一対一で接触したり、気づかいを示すよりもずっと多くの時間を、ショッピングで子供達のものを買うのに費やしていると思います。私達は実は所有物中心の文化なのです。子供達自身にではなく、子供達の所有する物に献身しているわけです。

  「お子さんに触れたり、抱きしめたりしないのは何故ですか?」と聞くと、「ああ、うちの子は触れられるのが嫌いなんです。抱きしめようと私がつかむと、いつも逃げるんですよ。」と言って、自分の無関心を正当化しようとする人がいます。つかむという言葉に注目して下さい。子供達は外へ探検に出かけたいのに、親や他の大人達が、子供を無理やり抱きしめるのを誰もが目にしたことがあります。また、子供が抵抗して叫び声を上げるほどきつく抱きしめたり、遊びに夢中の子供に突然近づいて抱きしめたり、友達や親戚、あるいは見知らぬ人にさえ、いやがる子供に、挨拶代わりに無理やり抱擁やキスを強いるなどです。ジョン・ホルトはこの行動を、「可愛さ症候群」と呼んでいます。子供達が愛らしく、可愛いからと、私達が無理やり子供達にキスや抱擁を迫ることです。

  子供達は、抱きしめられるのが生まれつき嫌なわけではありません。そういった反応は、大人があまりにもきつく、それもタイミング悪く、気にさわる方法で、痛みを伴うほどに抱きしめることが原因の条件反射なのです。子供達が生来持っている、スキンシップの喜びを回復させるために、親は次のような貼り紙を子供の寝室のドアに貼るといいでしょう。「私達に、楽しく、優しいタッチを。突然のきついタッチはお断り。」 こうすれば、「可愛さ」中毒の友人や親戚への注意にもなるでしょう。

  スキンシップをしない親の中には、「時間がかかるからね。毎日家族の一人一人を抱きしめたりして、スキンシップを持つ時間のある人なんているもんですか。」ともっともらしく説明する人もいます。けれども、触れ合いを通じて愛を表現をするのに、余分な時間などいりません。他の事をしながら簡単に出来るのです。家の中を歩いて家族とすれ違う時、相手の肩に優しく手をかけるのに、余分な時間はかかりません。朝、仕事や学校へと散らばる時、子供や夫、あるいは妻の頬を軽く自分の手で包むのに、お決まりの「行ってらっしゃい」を言う以上に時間はかからないはずです。片手で食卓の皿に食事を盛りつけながら、もう一方の手で食卓についた誰かの背中や首を軽く押してあげるのにも、余分な時間はいりません。けれども、「ここにいてくれて、嬉しいわ。あなたに食事を出せて嬉しいのよ。」というメッセージが伝わるのです。余分な時間を取らなくても、気持ちを伝え合う、スイートな方法は沢山あります。そういうちょっとした意思表示こそ、大きな意味を持つのです。

  アメリカ人の家族はどうして、スキンシップという「この上ない魁力」を利用しないのでしょうか?(フランス駐在のアメリカ人ビジネスマンの妻は、帰国した時に、「フランスの生活でアメリカと最も違っていたのは何ですか?」と聞かれ、「フランス人の家族は互いに、抱擁やキスをよくすることです。」と答えました。)

  ぎこちなく感しるのは、触れること・イコール・性的行為と教えた、今も根強く残っている清教徒的考え方のせいです。そのぎこちなさのゆえに、家族間の行為が歪み、同じ屋根の下に住みながら、何年も身体的な接触を持たずに過ごします。結婚式で娘と父槻や、息子と母親、兄弟と姉妹が一緒にダンスをしたりといった特別な機会は別ですが、そんな時は、自意識過剰になりながらするのです。

  家庭生活で私達が渇望する親密さのほとんどは、性的なものではありません。性的な部分には関心がいっていないのです。相手の体の突起やふくらみ、つまり胸や生殖器に触れてしまっておじけづく家族は、このように認めれば感情的な抵抗がなくなるでしょう。「ええ、時には性的な感情を持つこともあるかも知れませんが、それもごく正常な生活の一部だし、そうした感情について何かしようというつもりもありません。だから、気楽に親密さを示しましょう。」 カウンセルをする時に、私は家族に、互いの体についてどう感じるかや、感情のせいで身体的な触れ合いを持つのが難しいことがあるかと尋ねますが、殆ど毎回と言っていいほど、「イエス」という答えが返ってきます。そこで、その場ですぐに家族を抱きしめて、「ふくらみとの戦い」を止めてはどうか、と言うと、彼らは笑い出しますが、抱きしめ合うと、それまで味わったことのなかった親密さを経験し、感激のあまり、親子で涙ぐむことがよくあるのです。

  感情を抑制しすぎて、この国は「骨盤恐怖症」の国になっています。親戚同士が互いにA型になって挨拶し、頬と胸は抱きよせても、腰から下は体を離したままで立っているのです。

  心理学的な助けを求めている家族に最もよくある問題は、「コミュニケーションがうまくいかないこと」だと言います。そのような問題があるのは、自分の気持ちを伝えるのに、神が与えて下さった道具のほんの一部、すなわち話すことしか使っていないからです。私達は、コミュニケーションの別の道具、つまり皮膚を通しての言語を使う必要があります。皮膚や体の温もり、物理的な存在には、非常に豊富な語彙(い)があり、それを使うことによって、互いに、自分が守られ、感謝され、必要とされていることが感じられます。皮膚の触れ合いによって、自分が赦されていることを知ったり、慰められたり、また、自分が愛され、理解されていると感じたりもするのです。

  毎日の帰宅といったごくありふれた日常の出来事も、体が伝える言葉のほうが話言葉よりもうまく感情を伝えられるという良い例です。玄関から入ってくる時、話をしたいというムードにある人はそれほど多くはありません。プレッシャーに追いまくられた一日が終わり、外での過剰な感覚的負担から回復するための静かな時間を必要としているのです。家族は、この静かな時間への必要を誤解して、家族に無関心だとか、コミュニケーションをしようとしないと取ってしまいます。

  そのように、沈黙し、引きこもりたい気分の時は、相手に触れるとその感情がうまく伝わります。疲れている時には、挨拶として、相手にただ触れるなら、次のように、互いの存在を認め合うことができるのです。「大勢の人に会ってきて、話し疲れている。休んだら埋め合せをするよ。」 ほとんどの人は、手をギュッと握られたり、首の後ろにキスされたり、ウエストの所を触れられたり、腕を軽く叩かれるだけで頼しいものです。そういった帰宅の挨拶をもらう妻は、夫が自分に話をしてくれないという不満を言わなくなります。夫の口数は増えていなくても、触れる回数が増えたからです。

  アメリカの一般家庭でよくトラブルになっていることの一つは、子供に汚い靴下や下着を洗濯カゴの中に入れさせることです。親は怒鳴り、罰を与えたり、おだてたり、すかしたりしますが、何もうまくいかないようです。けれども、次のようすれば多くのエネルギーが節約され、もっと前向きな態度が生まれます。親が自分でその汚れた下着をカゴに入れることにし、ただ、その度に放らかした張本人はお返しとして親に5分間肩もみをしなければならない、ということにするのです。放り出された洗潅物のせいで、怒鳴り合いに発展するのではなく、親切の交換をすることができます。汚れた下着を何枚カゴに入れようと、背中のマッサージによって育まれる親密さとは比較になりません!

 

ビジネスでの「触れ合い」

 

  この本は、元々雑誌記事として出版され、1977年、11月27日日曜付のロスアンジェルス・タイムスにも掲載されました。その記事は、パーデュー大学で本を返却に来た学生達に図書館員が軽く触れていた事の調査報告から始まります。学生達は自分が触れられている事に気づいていませんでしたが、後で研究者に尋ねられた時に、自分自身や図書館とそこの職員に対して良い感情を抱いたと答えています。

  あるレストラン・チェーンの社長はこの記事を読んで、「自分のビジネスでもこれを活かそう。」と、決心しました。そして一年後、あるパーティーで、私はその社長に会いました。私がその記事を書いた本人と知ると、その人は大尊びでこう言いました、「ご存じないでしょうが、あなたは、私のレストランが繁盛するのに一役買っているんですよ!」彼は、あの記事を読んでから、従業員に、釣銭を渡す時、メニューを出したり、返してもらったりする時など、できるだけお客さんに触れるようにと指示したそうです。きちんと調査した訳ではありませんが、ひいきにしてくれる客が増え、チェーン店も増えたことから、触れることが、客にレストランに対する良い印象を与える助けになっていると彼は確信しています。

  ビジネス界では、セールスを促進し、観客とより良い関係を築くために、益々この「触れ合い」を利用するようになってきています。

  ベル・テレホン・システムがテレビのCMキャンペーンで流した歌はなかなかよくできていました。「さあ、遠くにいる誰かに声で触れよう。」この一節は私の頭にこぴり付きました。ベル杜の狙い通りです! ベル社の重役は、このCMは「今までで最高のヒット」で、「感情に強く訴える。」と言っています。この歌詞について問い合わせをする電話が相次いだそうです。

  エソテリックス・ドライスキンローションのコマーシャルでは、モデルがこう言っています。「眺められるだけはイヤ。触れられたいの。」 ナチュラル・ワンダー・コスメティック社のモデルは、「私にとって大切なのは、人ともっと近くなること。だから、お化粧はきれいで…持ちが良く…新鮮で、触れられるものでなくちゃ。」と言っています。

  触って気分を静める「いらいら解消の石」なる物を売っている通信販売会社もあります。それは、なめらかな石で、いらいらした時に気分転換のため、指で撫でるのです。ビジネス雑誌には、「エグゼキュティプ・サンドボックス(砂箱)」の宣伝が載っています。オフィスの机にマッチするような仕上げ材を使った装飾用の箱で、中には砂が入っています。電話したり、秘書に口述したり、座って熟考する時に、その砂を掴んでは、指の聞からさらさらと落とすのです。

 美容院や床屋に行った時くらいしか、誰かに触れてもらうチャンスのない人達が大勢います。私の記事を読んだ、アイダホ州の小さな町に住む美容師がこんな手紙をくれました。

  「朝、店に着くと、ドアの所に、まるで美容室に行って来たばかりのような年輩の婦人達が何人も列をなして開店を待っている事がよくあります。必要ないのに、過に二回もシャンプーやセットに来る人もいます。その人達は、単なる髪の手入れではなく、身体的、人間的な触れ合いを求めているのです。私は同情を覚えずにはいられません。だから、シャンプーする時には、頭皮を優しくマッサージしてあげます。肩にも頻繁に触れ、セットが終わったら、首すじを軽く握ってあげるようにしています。」

 

自分自身に触れる

 

  かっと来た時に、自分の体がどう反応するか想像してみて下さい。あなたの「いらいら動作」は、どんなものですか? あごをつかみますか? 耳たぶを引っ張りますか? 髭をなでたり、口髭を引っ張りますか? または、爪を噛むでしょうか? ネックレスをしきりにさすったり、ブレスレットを上下に動かしたり、ジャケットのボタンをいじくったり、服のけば立ちを引っ張ったり、眼鏡をゴシゴシ拭いたり、後頭部を叩いたり、額をさすったりするでしょうか?

  これらは、緊張が動作に現れた時の典型的な例ですが、たいていは無意識でしています。どんなに落ち着いているように見せようとしても、内に秘めた動揺は、そのように自分の体を触る動作に表われて来ます。それらの動作は、「心配」、「落ち着かない」、「無力に感じる」、「不愉快だ」、「退屈だ」、「いらいらする」、「頭に来た」などのメッセージを伝えます。昔、私が講演を始めた頃を振り返ると、身が縮まる思いがします。当時は、すっかりあがっていて、講演中にしきりに眼鏡をずり上げていたからです。きっと聴衆はその動作にうんざりし、いらいらしていたことでしょう。

  自分の体に触れるには、意識的なものと、無意識的なものの二種類があります。意識的に触れる場合、自分でどのようにするか選択します。化粧をしたり、クリームやローションを塗ったり、身だしなみを整えたり、自分でマッサージして体をほぐしたりなどです。たった今、私はデスクの上に左ひじを置き、左手で首を支えながら、首筋をマッサージしています。そして、右手でこれを執筆しています。この姿勢を取る事で、私は仕事をしながら、疲れた首の筋肉を腕で支えている訳です。

  下品に聞こえるかも知れませんが、鼻くそをほじくるのさえ好ましい結果を生むことがあるのです。世間では、特に公の場所では眉をひそめられる行為ですが、次の話を聞いたら、この行為に対する皆さんの態度が変わるかも知れません。マット・トーマスは、自己防衛法の教帥で、襲われそうになったり、強姦されそうになった時の撃退法講座を様々な大学で女子学生のために開いています。彼は、状況によっては、鼻くそをほじくるのも効果があると提案しています。ロサンゼルス・タイムス紙で、スタンフォード大学の女子学生が、この方法の効果を報告しています。夜、人気のないさびれたバス停で一人きりでバスを待っていると、二人の男が近寄って来ました。そこで、即座に彼女が鼻くそをほじくり出すと、男達はうんざりした様子で、去って行ったのです。

  私もこれを試してみました。ある夜、車で一人で帰宅中のことです。人気のない通りで信号待ちしていると、1台の車が私の車のすぐ横に止まり、ドライバーが私を誘惑するような目付きで見ました。だからすぐに、私は鼻の穴に指を突っ込んだのです。するとドライバーはきっと胸くそ悪くなったのでしょう。そそくさと走り去ってしまいました。私は車の中でお腹の皮がよじれるほど笑いました!

 

友人に触れる

 

  UCLAでのダンス・リサイタルの休憩時間に、ある友人と私は、人々の身体的な接触を観察していました。何百人もの人々が、階段や廊下、芝生の上など様々な所で、二人、三人、またはそれ以上の人数のグループになって話をしていました。それだけ大勢いたにもかかわらず、驚いたことに、お互いに触れ合っていたのは、二組だけだったのです。小さな女の子と女性が二人とも同じ方向に向かって立ち、女の子は、母親らしいその女性に背中をもたれかからせ、その女性はその子を両腕で抱きしめていました。階段では、若い女性が、一段下に立っているポーイフレンドの肩に腕を回して、その背中に無邪気に寄り掛かっていました。

  他の人達はみな、お互いに対して直角の位置に立ち、お互いに見ることも、触れ合うこともなく、空間に向かって話をしていました。私達の社会が、疎遠な社会と評されるのも無理ありません! 心理学者のシドニー・ジャラードは、街角のカフェテラスや公共の場に座るヨーロッパ人達が、話しながら、どれほど互いに触れ合うかを調べました。結果は、平均一時間に百回だったそうです。同様な調査をアメリカでしたところ、アメリカ人は友人同士で、平均一時間に二、三回しか触れ合わないことが分かりました。

  なんと皮肉なことでしょう。アメリカ人は、友情のしるしとして様々なことをします。感情のこもった素敵なカードを送ったり、心のこもった手紙を書いたり、夕食に招待して、その準備にたっぷりと手間をかけたりもします。手の込んだごちそうやおいしいデザートを作り、テーブルをきれいに整えます。友人達にプレゼントも買います。時には、かなり値の張るプレゼントをすることもあります。嬉しい知らせには共に歓声を上げ、悪い知らせには慰め合います。一緒にいることに尊びを感じ、特に、しばらく会わなかった人ならその喜びは格別です。それでも、お互いに触れ合ってはいないのです。

  たいていの人がそうであるように、友人を本能的に抱きしめたくなったり、触れたくなったりしても、恥ずかしさの故に躊躇している場合、自分の殻から抜け出し、触れることの甘美な 「香り」を楽しむには、どうしたら良いでしょうか? 以下は、この社会から植え付けられた不安を抱くのではなく、元々神が意図されたような快い気持ちを持てるように、段階を追って説明した手引です。これによって、文字通り、あなたの神経組織に、触れることが気持ち良く感じる新しいプログラムを組み込むことになります。

 

  1.まず触れ合いたい友人と、この事についてよく話す。

  2.友達と座ったり、話したりする時に、腕や肩に軽く触れるようにする。

  3.一緒に歩く時に、自分の腕を彼の腕に通す。あるいは、彼女の手を自分の腕にとる。しばらく、この腕を組んだ姿勢を続ける。でも、疲れないように、あまり長くはしないこと。

  4.友人が疲れているようなら、優しくそう言ってあげましょう。そして、その人の肩や首筋、背中をさすってあげるのです。「背中をさすって欲しい?」と、聞く必要はありません。ただそうしてあげるのです。時々、そうして欲しくても、恥ずかしさからノーと言うこともあるからです。

  5.適当な状況を見計らって、相手の腰に腕を回して歩く。相手にとってそれが重く感じられるほど長い間そこに腕を置かないように。

  6.散歩に出た時に、しばらく友人の手を握りながら歩く。

  7.食後に食単に座って、コーヒーやデザートを楽しむひとときに、少しの間、相手の手を握る。

  8.このナイジェリアの諺を忘れないで下さい。「真の友は、あなたの両手でしっかりと握れ。」

 

 

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触れることの力

 

 「接触:最初の四分間」より。レオナルド・ズニン医学博士、ナタリー・ズニン共著。(ニューヨーク、バランタイン・ブックス。1972年)

 

  誰かの腕や肩を軽くたたくのは、「あなたが好きです。」「あなたの意見に賛成です。」「上出来だよ。」「大丈夫。心配いらないさ。」などの心理的メッセージを送っているのです。触れられることから身を引くなら、そのような動作は、どんな言葉よりも声高に語ります。また、触れることが親密さや性的な意味合いを持っている場合もあります。しかし、最初の接触、友人や見知らぬ人との最初の四分間の触れ合いは、非常にダイナミックな力を発揮します。

  執筆家ローラ・カニンガムは、触れることに対する態度は様々な文化で極端に異なると指摘しています。披女は、フロリダ大学の心理学者シドニー・ジャラードが、世界の四つの都市で、喫茶店に座っているカップルを観察した結果にも触れています。パリでは、カップルは平均一時間に110回触れ合っています。(彼らはただ会話をしているだけです!)プエルトリコのサンファンのカップルは180回も軽くたたいたり、くすぐったり、なでたりしていました。しかし、典型的なロンドンのカップルは、一度も触れ合いませんでした。アメリカ人は、一時間の会話中に一度か二度触れ合うだけでした。

  触れ合いは、(身体的にも感情的にも)人に親近感を与えます。だから、緊張をほぐし、心なごやかにして、もっと触れ合いましょう。そして、しり込みしないこと。一番大切なのは、相手が触れてくるのを待たないことです。触れることの力は、気前よく行なうことにあります。自分が最初に触れる人となりましょう。拒否されることはあまりないでしょう…触覚、それは五感の中でも最も親密です。そこをうまく利用しましょう! すてきに見え、聞こえ、良い香りがするだけではまだ不十分です。触れてこそ、最も強い印象を与えることができるのです。

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触れることには、癒す力がある。

 「トータル・ヘルス」(1990年6月)より

ビクター・M・パラチン著

 

最近、ある四十才の男性が、重度の白血病で入院しました。強度の化学療法を受けており、軽い風邪を家族や友人から移されても致命的になる恐れがあったので、隔離されていました。

  家族は、病室のドアまでしか入ることが許されず、それもマスク着用が義務づけられました。患者に触れることが許されたのは、完全に健康な看護婦だけでした。

  この隔離状態について、この患者は次のように述べています。

 「看護婦は、シーツを取り替えたり、体を拭いてくれたり、色々してくれました。しかし、披女は、私の体に触れるのをとても嫌がっていました。少なくとも、私はそのように感じました。私になるべく触れないで仕事をしようとしていたのです。触れることがどんなに大切か、その時に彼女に話せたなら、と思います。私は、人のぬくもりに飢えていました。触れ合いを切望していたのです! 性的な願望では全くありませんでした。あの病気の重さでは、性的なことなど考えもしませんでした。しかし、触れ合いの欠如のため、生きようという意志さえ失いつつあるように感じていたのです。もちろん、回復して生き続けたいとは思っていました。しかし、病気と闘い続ける動機がだんだんと薄れていっていました。その動機を再発見するために、私には誰かとの肌の触れ合いが必要だったのです。」

  この人の経験から、教訓を幾つかあげてみましょう。触れることは、痛みを軽減し、不安を減らし、人生の打撃を和らげ、希望を与え、癒す力があります。母親達はこれが直観でわかるのです。

  人に手をおくことは、クリスチャン文化で良く知られています。現代の心理学や医学も、何世紀も前からクリスチャンや母親達が知っていた事、つまり手をおくことには癒す力があることを証明しています。

  多くの研究や実験結果から、人に触れると言う簡単な動作が、実際に身体に益をもたらすことが証明されています。例えば、心臓の拍動が落ち着いたり、血圧が下がったり、病気から早く回復したりします。

  例として、バルチモアのメリーランド大学医学部教授、ジェームズ・リンチ博士の行なった、触れることが与える影響についての広範囲に渡る研究があります。博士は次のような結論に達しました。「身体の接触は、心理的健康に非常に大きな影響をもたらす。血圧が下がり、気分が和らぐ。」

 リンチ博士は、自分の家庭で、娘とその友人達を対象にしての、「非公式」な実験も試みました。博士は、一人一人に血圧計をつけ、子供達がおしゃべりする間、その推移を観察したのです。

  そこに、ペットの犬が入って来ました。すると子供達はその犬を撫で始め、途端に全員の血圧が下がったのです。また、ペットを撫で始めてから、子供達の会話ももっと愛情や感情のこもったものに変わったことに、リンチ博士は気付きました。動物を撫でて落ち着かせていることで、子供達自身の感情も落ち着いたのでした。

  リンチ博士のような研究者達は、触れることが、ただ身体的だけではなく、心理的、また感情的にも益となっていると信じていることも、付け加えておきましょう。

  ニューヨーク市立大学のスティープン・テイラー心理学教授は、多くの研究に基づき、「触れられて心地良く感じる人は、他人の動機や意向を恐れたり、疑ったりすることが比較的少なく、日常生活においても心配や緊張に襲われる確率が低い」と、発表しています。

  サンディエゴ州立大学で、学生4千人を対象に行なわれた別の調査によれば、触れられると落ち着かない人は、全般的に会話が苦手で、自信が欠如していることが判明しています。

  また別の実験がレストランで行なわれ、さりげなく触れることが、収入増につながると証明されています。おつりを返す時に、客の手や肩に軽く触れたウェイトレスは、他のウェイトレスよりも受け取ったチップが多かったのです。

  40年前になされた初期の研究でも、新生児が生き延びるには、愛情こめて触れられる事が必要だと分かっています。施設に収容された赤ちゃん達は、必要物は何でも与えられましたが、抱いてもらったり触わってもらったりする事がほとんどありませんでした。その結果、それらの赤ん妨達は、乳児のうつ病になり、内面に引きこもり、感情を表さなくなってしまったのです。何人かはすっかり衰弱し、ミルクを拒み、栄養失調で死亡してしまったほどでした。

  要するに、触れることは誰にとっても益となるということです。一度触れるだけで、気分を和らげ、慰め、言葉では決して表わせないような方法で思いやりを伝えるのです。しかし、積極的に他の人達に触れたいとは思っていても、触れることに抵抗を感じる人が大勢います。この人達はどうしたら良いでしょうか? 心配ご無用。誰でも、人に触れる能力、それも抵抗なく自然に触れられる能力を伸ばすことが可能です。

 

  「触れる雰囲気」を生活の中に溶け込ませるための四つの提案をあげてみましょう。それは、英語のそれぞれの頭文字がCなので、人との触れ合いを増やすための4Cと呼ばれています。つまり、コミット(決心)、コミュニケート(意志の疎通)、コネクト(接触)、コンフオート(慰め)です。

 

  1.毎日、もっと多く触れようと決心する。そのために、どんな機会も利用するのです。例えば、仕事に行く前に夫や妻にキスをする。友達と会ったら抱擁する。子供達が学校から帰ったら抱いてあげる。夫や妻と一緒にいる時には手をつなぐ。物語を子供達に読む時に、ただ横に座らせるのではなく、膝の上に乗せる。強いきずなで結ばれた家族に共通している「秘決」の一つは、スキンシップや親密さのレベルが高いことです。

  ある夫婦が、家族の結びつきを強く保つための大切な日課についてこう説明しています。「毎晩、私達は子供部屋に行き、一人一人を抱きしめ、キスしてから、こう言います。『みんな本当に良い子達だね。とっても愛してるよ。』と。一日の終わりにこう告げるのは、とても大切だと思います。」

  2.もっと体の触れ合いが必要で、それを望んでいることを伝える。言わなくても誰かが気付いてくれるとか、家族や友人なら心の中を察してくれると思って待たないこと。ほしいなら、求めるのが何よりです。抱擁を求めましょう。誰かに、「良くできました。ハグ(抱擁)をあげるわね!」とか「それしてくれてありがとう。お返しにハグをさせて!」と言いましょう。

  さて、四才の女の子からの教訓があります。その子は、毎晩毎晩、あるお気に入りの物語を読むように父親にせがみました。毎晩同じ物語ばかり読むのにすっかり飽きた父親は、それをテープに録音し、娘にテープレコーダーの使い方を教えました。

  父親は、このアイデアがうまくいき、大変満足していましたが、それも束の間。数日後に娘がまた、物語を読んでほしいと言ってきたのです。父親は言いました。「テープレコーダーの使い方は、ちゃんと知っているだろう。」 すると子供は答えました。「うん。でも、テープレコーダーには座れる膝がないの。」

  3.積極的に触れることで、人との接触を作る。触れてほしいなら、まず自分から触れることが最善です。1976年、ルイジアナ州、シュレプポート市長を務めていたジェームズ・C・ガードナーは、ルイジアナ州立大学で卒業生への祝辞を依頼されていました。しかし、祝辞を述べた時、心中は悲しみでいっぱいでした。というのも、その数時間前に、妻の毎年の健康診断の結果が出て、末期症状にあることが分かったからです。

  卒業式の後で、ガードナー市長は、式の中で祈りを導いたラビの方を振り向き、泣き始めました。その午後のことを話すと、ラビはただ彼の肩に手をおきました。それが人生にどのような影響を与えたか、ガードナー市長はこう回顧しています。

  「彼(ラビ)が言った事は、覚えていません。それはどうでも良かったのです。大切だったのは、思いやりを私に示してくれた事です。その後数ヵ月間、私は気遺われる事が、どんなに大切か学びました。それを学ぶ事によって、私自身もっと人を気遺う人間になったのです。十年前の私は、『人に触れる』人間ではありませんでした。しかし、今は抱擁もするし、気楽に肩に腕を回したり、相手の手を取ったりもします。なぜなら、触れることが、思いやりを示すのに大変重要であることを学んだからです。」

  4.触れることで相手を慰める。友が、悲しい知らせや悪い知らせを話してくれたなら、ただ手を伸ばして触れてあげましょう。言葉では、ただ話すだけでは伝わらないこともあります。でも触れることで、多くの事を「語り」、愛と理解と同情が相手に伝わります。

  未亡人になって間もない女性が、クリスマスイブの礼拝で、深い悲しみに襲われていました。すると、彼女の横に座っていた十才の女の子が、その人の涙に気がつきました。次に何が起こったか、悲しみの中にあった女性はこう語っています。

  「私は、その小さな手が私の膝に触れるのを感じました。その子は、私の手を取り、慰めるように握ってくれました。私の胸はいっぱいになりました。」

 

  手は沢山の事ができるように造られていることを、誰もが覚えておくべきです。最も有益な使用法の一つは、愛や暖かみ、思いやり、理解、受け入れていることを相手に伝えることです。だから、手を伸ばし、誰かに触れて下さい。それは、とても健康的です!

 

 

抱擁によって健康に

「愛は健康の元」

デニス・ウィン著

 

あなたのパートナーを抱きしめましょう。それには、良いことづくめです。これこそ、何千万ものアメリカ人が、近い内に映画や広告、買物袋、ステッカー等、ありとあらゆる所で見るようになるメッセージです。

  精神健康の全米キャンペーンの一環として、暖かく、思いやりを持ち、人と近くなることが健康と長生きの秘訣であることを示すために考え出されました。多くのイギリスの医師達も、このメッセージに関心を寄せています。

  「現代医学は、愛の力を忘れてしまっている。」と言ったのは、WHO(世界保健機構)のワーズデン・ワグナー博士です。しかし今では、世界中の医師や科学者がそれを再発見しています。

  イスラエルでは、心不全や狭心症にかかった人一万人を対象に五年間の研究がなされ、その原因を探りました。その結果、一つの共通点が明らかになりました。病気になった人達は、妻が抱擁やキスなどを積極的にすることがなかったと言ったのです。

  カリフォルニア州の一つの郡で、病気予防には何が良いのかを突き止めるため、医師達が住民全員を追跡調査しました。医師達が発見した健康法は、毎日のジョギングでもエアロビクスでも、油っぽい食べ物を避ける事でもありませんでした。実は、親友や、愛情の通う伴侶またはパートナーがいる事でした。

  ハーバード大学医学部の研究者達によると、病人を看病する時−−あるいはされている時−−には、血液中で病気を撃退する化学物質が急速に増加する事が認められています。また、少しの健全な抱擁も、手術からの回復を早めます。

  この理論を証明するために、ある実験が行なわれました。ある病院で、同じ外科手術を受ける患者全員を、手術の前夜に麻酔医が回診しました。

  一部の患者には、立ったままでお決まりの質問をし、残りの患者には、ベッドの脇に座って、手を取りながら話をしました。結果は次の通りです。直接の触れ合いがあった患者は、手術後の痛みもより軽く、他の患者に比べ少なくとも三日程早く退院できました。

  親密なきずなで結ばれた幸福な家庭は、健康維持にも役立ちます。「精神的、身体的な病の多くは、家庭内での緊張が直接関係している。」と、ロンドンの精神科医ジョセフ・パーク博士が語っています。

  イギリスの心臓病専門医の中には、肥満や喫煙にも増して、愛の欠如こそ心臓病を引き起こす「最大要因」であると、確信する人がいます。プライトン・クリニック院長のガン専門医ジャン・デウィンター博士もその一人です。「人生観は、体の抵抗機能を大きく左右する。幸福で愛されていると感じる時に、最も良く機能する事は間違いない。」と博士は語っています。

  より健康な生活の為の処方箋として、このキャンペーンでアメリカが提唱するのは、極めて単純な事です。

 

  *人に対してオープンであること。

  *恥ずかしさのあまり、自分の殻に閉じこもらない。

  *アフェクションを示す。周りの人々に触れる事を恐れない。

  *いつまでも恨みを抱かない。

  *悩みがあるなら、人に話す。

 

自然にできる抱擁

 

ある父親が、子育ての感覚的側面を発見する。

スキップ・ロジン著。「ペアレンツ・マガジン」1990年5月号より。

 

最初の子供が生まれる一週間くらい前に、友人が私に、男の子と女の子のどちらが欲しいかと尋ねました。私は性別には全くこだわらないと説明しながら、不意に、本当はどちらを望んでいるかが自分で分かりました。娘が欲しかったのです。その理由も、よく分かっていました。娘なら抱きしめたり、キスしたりするのが、ごく自然に出来るけれども、息子だったらぎこちなく感じると思ったからです。

  子供を抱き締める事、それは父親として、私が最も楽しみにしていたことだと思います。子供時代に、あまり抱き締めてもらった事がないからです。冷たい家庭ではありませんでしたが、みんな内気だったのです。両親は私を愛してくれました。励ましてくれ、親切で忍耐強かったのですが、私にはそれ以上のものが必要でした。

  私が病気になった時は、惜しむことなくさかんに愛が注がれました。ちょっと風邪をひいただけでも、両親がベッド脇で本を読んだりしてくれました。しかし、一番好きだったのは、私の頭を撫でてくれた事でした。父の手が額に触れるだけで、私はほっ したものです。

  愛情を行動で表すには、はっきりとした境界線がありました。例えば−−寝る前に限っていましたが−−母にはキスができました。しかし、父は近寄り難いほうでした。「ハロー」や「グッドバイ」といった挨拶は、握手のみでなされました。七才になった頃には、何かが欠けているように感じていましたが、自分が受けるもので満足する事も学びました。

  それから良い年月が過ぎ、父がガンにかかった時、私は父を慰めるため、よく抱擁したものです。父の頬にキスする事さえできました。もっとも父からはキスをしませんでしたが。父にはどうしてもそれが出来なかったのです。初めて抱擁しようとした時、父が体をこわばらせたのを覚えています。抱擁に自然に反応するまで、十八ヶ月かかりました。

  相手が娘だったら、父はもっと抱擁やキスをしてくれたでしょうか? そうだと思います。私は、自分が父の二の舞を蹄むようになるのでは、と恐れていました。だから娘が生まれたら、私にとってもっと楽になると思ったのです。結局、娘を授かり、ごく自然に抱き締める事ができました。リベカは、抱き上げられ、触れられ、くすぐられ、キスされるのが大好きな赤ちゃんでした。

  私達はそれを早い時期から始めました。赤ん坊の時にひどい発作性腹痛があったので、私はおんぶ紐で娘を抱き、冬の夜中に近所中を歩き回ったものです。私は、コートの下に娘を抱くのがとても好きでした。娘の手が私の脇の下にしがみつき、頭は私の胸に埋めていました。

  一才頃には、リベカは、いつどのように慰めが必要かを伝えるようになりました。私の手をとって抱きしめたり、私が読書をしていると、ソファーによじ上って、私の手を自分の首の後ろに置いたりします。私が時々、首筋を撫でてあげるからです。その一つ一つの動作によって、私達はますます仲の良い親子になりました。

  よちよち歩きをする頃には、プランコや砂場で遊んでいる時にも、私の膝に上がって一休みし、ジュースを飲むようになりました。片手で水筒とストローを握り、もう一方の手で、私の耳をさすりながらです。

  三才ぐらいになると、もっと大胆になりました。公園や図書館に行って疲れたり、保育園で何かいやな事があると、私のズボンのすそをつかんで、「パパ、ぎゅっと抱っこして。」と言います。もちろん、私はいっでも大歓迎です。本を読んであげるために、リベカを片方の膝に座らせると、私の腕に寄りかかり、眠たそうに私の肩に頭を休める事もありました。

  このような何気ない行為が、私にどれほど大きな影響を及ぼしたかは、驚くばかりです。私はとても幸福でした。私の子供時代には、長い間頑張って何かを達成した時など、特別な時のために取っておかれていた行為が、今の生活では、ごくありふれた習慣となったからです。

  妻のジュリーの妊娠を知った直後、実は、三つ子を宿していると聞かされました。娘一人と息子二人です。そのような驚きに、心の準備が出来ている人は滅多にいないでしょう! しかし、リベカとつきあってきた三年間の経験のおかげで、私は大して動揺しませんでした。息子にちゃんと抱擁やキスをできるだろうかという恐れは、すっかり消えていました。

  六ヶ月になった三つ子がみんな子供部屋の床に座り、私を見て微笑んでいた朝を思い出します。とてもかけがえのない朝でした! 私は、三人の内で一番体が大きいものの、はいはいが一番遅かったジェイコプの脇に横になりました。彼はまた、最も活発に愛情を表現する子供で、私に寄りかかると、私の首をその小さな手で抱きしめようとしました。

 

 

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 「暗い社会で明るい子供を育てる」より ジグ・ジグラー著 (イギリス、ハイランド・ブックス刊、1985年)

 

  たいていの親、特に父親達が最も誤解していると思われるのは、子供にどれほど抱擁やキスが必要かと言うことでしょう。「成功は確実」セミナーに出席した、40代、50代、60代の人の中には、幼い時でさえも、親から愛しているよと言われたり、抱き締めてもらったり、キスしてもらったという記憶がない人々が多数いました。残念な事に、そのような人はたいてい自分自身の子供や孫にも、愛情を肌の触れ合いによって示しません。これは、大変悲しい事です。

  しかし、幸いな事に、抱き締めることに縁がないという習慣は断ち切る事が可能です。子供の頃、一度も抱き締めてもらったり、キスしてもらったことがない大勢の親は、そのために人生に一抹の寂しさがあるのを知っており、その結果、その鎖を断ち切ろうと決意するのです。ゆっくりながらも着実に、大勢の親が子供に抱擁やキスをしたり、感謝の気持ちを示す事を学びつつあります。それは絶対に可能です。

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  一番活発なアレキサンドラは、床をはってきて私のお腹の上に上がりました。その頃には、マシューも私の横に寄って来て、私の胸にはい上ろうとしました。

  私が床に仰向けに寝て、できるだけじっとしていると、子供達は私の上をはい回り、立ち上がろうとしました。私の顔をつまんだり、髪の毛を引っ張ったり、お腹を指で押したりして、この小人達はパパ・ガリバーと楽しい時を過ごし、ひっきりなしにアバアバ言ったり、笑ったりしていました。私はそれが大好きでした。リベカが、私に良い訓練を与えてくれたのです!

 

 

触れること、それは愛の言葉

「レッドブック」(1990年6月出版)より。

レスリー・ドーマン著

 

相手を安心させるようなタッチ、熱烈なタッチ、ゆったりとしたタッチ、情熱的なタッチ−−それはすべて、愛の言葉。ニューオーリンズ市のウエストバンク精神療法センターの、結婚と性生活健康部門の部長であるデービッド・シュナック博士によれば、直接相手に触れることで、夫婦は自分の様々な感情をすべて表わします。

  数年前、身の上相談コラムニストのアン・ランダースが、女性読者達にこう尋ねたことがあります。「ただ抱き締められ、優しく扱われるだけで満足し、『その先の行為』は忘れてしまうようなことがありますか?」 返答をした9万人の読者の内、72%が「はい」と答えました。(この内40%は40才未満でした。) 体全体に触れてほしいという思いは、必ずしも性的なものとは限らず、女性にとっては、身体的な親密さの基本要素なのです。また、大勢の女性が、それを与え、受けることを、夫達に教えなければならないことを発見しています。

  32才のマリアンナは、触れる事について、夫のジェイクと彼女の考え方はとても違っていたと言っています。「ジェイクにとっては、優しい抱擁や愛撫をすると、次はいつもセックスでした。だから私は、ただ必要な触れ合いがほしいというだけの理由で、セックスをしていた事がよくありました。でもとうとう、私はこう言うようになったのです。『あなた。たった今、私に必要なのは、優しく抱き締められる事だけなの。後で、もっとセックスをしたい気分になると思うわ。』ムードさえ良ければ、沢山の抱擁と愛撫でいちゃつくなら、実際にセックスするのと同じ位、スリルがあり、エロチックな気分にしてくれます。そうやって触れ合うと、初めて互いを誘惑し合った時のような気分に戻れるのです。」

  マリアンナや他の女性達にとって本当に大切なのは、触れ合うことによって生じる強い感情のつながりです。それがあれば、夫婦の性行為は、単なるセックスではなく、より大きく深い愛を交換する手段となるのです。パートナーが忍耐強く、愛情深く触れながら、求愛し、誘惑し、しかも、それが感情とエロチックな要素のこもった愛の営みにつながっていくことは、しばしば女性がオルガズムに達するのに不可欠な条件です。

  しかし、男性が、優しく愛情深いタッチを好まないという訳ではありません。精神療法医のリリアン・B・ルービン博士は、「Intimate Strangers:Men and Women Together(親密な他人達:男と女が共に)」の中でこう説明しています。「男性達が、抱き締められるのを必要としているのは事実です。しかし、それだけを求め、それが最終的目標であることは、滅多にありません。事実、女性達の間で最も一般的に出ている苦情は、安定した関係にある男女間でも、男性からの優しい身体の触れ合いが、いとも簡単にセックスに発展してしまうことです。」

  触れ合いと−−それに対する反応−−が、男女間でそれほど異なっているのはどうしてでしょうか? もともと男女共に触れ合うことを必要としています。「性的解決法:愛し合う男と女の為のガイド」の著者、著述家でセックス・カウンセラーのマイケル・キャスルマンは、触れることは「全ての感覚の母」であり、最初に発達し、それなしでは人は生きて行くことも出来ないと説明しています。「生まれながら盲目で耳が聞こえない赤ん坊も、正常に成長していく。しかし、暖かく触れてもらうことのない子供は、死亡することもある。」 男女は、共通の必要をもって生まれてくるものの、触れることは完全に異なる意味を持ち始めるのです。

  キャスルマンはこう指摘しています。「女の子は、互いに抱きしめ合ったり、キスすることが許されている。しかし、この社会では男子の触れる行為はかなり制限され、せいぜい背中をたたくか、馬鹿騒ぎをするか、スポーツを通じてくらいのものである。女の子は、人に触れても構わないと教えられるものの、性的接触は禁じられるか、抑制される。一方、男子は、性的に女性をものにするため以外は、触れることは、『女々しい』と教えられる。」 男性は、その愛情表現をセックスに限定するように教えられている場合が多いので、「最後までやらなければ」と感じることなく、優しく愛のこもったさりげない行為を気がねなくできるようになる必要があるのです。

 

 

優しく愛情深い世話

「プリペンション」誌より、ジョン・イェイツ者

 

様々な研究により、赤ん坊が生まれた後の母子の接触が多ければ多い程、きずなも強くなることが明らかにされています。多くの病院では、新生児を新生児室に移す前に、ほんの少しだけ形式的に赤ちゃんを母親に見せます。全く衛生的です。機械化時代の、衛生的かつ機械的な誕生です。

  この衛生的な措置は、その後の赤ん坊の成長に大さな影響を与えます。初期の研究で、このお決まりの指示に従った母子と、出産時に一時間のスキンシップができ、その後も入院中に毎日五時間スキンシップをしていた母子との間で、比較調査がなされました。出産後一ヶ月して、赤ちゃんとより多くの接触をした母親達は、赤ちゃんにはるかに愛情を示し、もっと子どもの目を見て話すことが分かりました。一年後、より多くの触れ合いがあった母親は、医師の検診中も子供のすぐそばにいて、検診の間に子供が泣くと、優しくなだめるのが観察されました。二年経つと、この母親達は、命令的な口調より、むしろ質問する形で子供に話をする傾向がありました。五年後には、この子供達は、病院の指示に従った母親の子供達よりも知能指数が高く、言語テストでもより良い成績を収めました。

  フランス人産婦人科医、フレドリック・レポヤーは、殆どの病院の分娩室にあるような閃光器やまばゆい照明、新生児の尻叩きをやめました。レポヤー方式では、薄暗く静かな部屋を使います。出生後、新生児はへその緒がまだ付いている内に、母親の腹の上に静かに寝かされます。そして優しく触れ、撫でられます。へその緒は脈動が止まった後に切り、その後で暖かな湯に浸かるのです。

  ここでも、出生直後に触れることの益は、後ではっきりと現れて来ます。フランスでは、レポヤー方式で生まれた赤ちゃん達が、一才、二才、三才になると、運動神経の発達がより優れていることが確認されています。特に、両手がもっと器用で、歩き始めるのも早く、おまる訓練でも問題が少なかったのです。

  レポヤー医師は、母子の触れ合いは、出生後も引き続さ重要だと確信しています。彼は、インドで見た幼児マッサージ法を西洋の母親達に勧めています。「このマッサージは、特に背骨を中心に、ゆっくりと優しく、またしっかりと頭からつま先まで撫で、幼児に良い刺激を与えます。」

  マッサージは、生後一ヶ月になるまで始めるべきではありませんが、いつまでという制限はありません。そんなに気持ちが良いのに、止める必要などあるでしょうか? 大人にとってマッサージが良いなら、子供にとっても良いことでしょう。

  残念ながら、たいていの人は、触れることが大人にとって益となると考えてはいません。

  「我々の文化は、互いに触れることを忘れている」と、ある心理学者は当誌に語りました。「他にも、同じ問題を抱えている国はある。スカンジナビア諸国、ドイツ、アメリカなどのように。しかし、大多数の国々では、もっと頻繁に触れている。どんな文化的背景にあっても、若者の間では、触れることは非常に一般的なことである。

  触れることで、対人関係が盛んになり、安心感を覚え、ストレスが解消される。」

 

 

この世界で最も大切なもの、それは人との触れ合い。

あなたと私の手が触れ合うこと。

弱り果てた心には

住まいやパンやワインにもまさるから

住まいは、朝が来るまで、

パンもその日だけ。

でも手の感触、優しい言葉の響きは

いつまでも、心に残る。

−−スペンサー・マイケル・フリー